スニーカーブームの終焉とアメカジ野郎の終焉(前編)

  2023年には多くの人が半信半疑だった「スニーカーブーム」の終焉について、2024年上半期、誰もが確信を持つようになりました。


 「スニーカーブーム」をけん引し続けたナイキ、アディダス共に大幅な減収、赤字を計上していることからも客観的に「スニーカーブームの終焉」は明らかですが、その原因を一つに絞ることは難しいでしょう。


 なぜなら、現実としてスニーカーは町に溢れているからです。例えば、通勤電車の会社員の足元を見ても、いつの間にか革靴以外就労規則違反のような雰囲気は払しょくされ、スニーカー通勤をする人が増えています。また、1990年代、2000年代のスニーカーブームが男性中心だった一方、2010年代のスニーカーブームは「女性のスニーカーブーム」であったと言われるように、女性の普段着からもパンプスやブーツを押しのけてスニーカーが広まっています。



 振り返ってみれば、スニーカーはその誕生以来常に普及し続け生息域を広げ、ユーザーを増やし続けているのです。それなのになぜ、ナイキやアディダスは売り上げを落とし、「スニーカーブームは終了した」と言われるのでしょうか。本当に「終わって」いるのは何なのでしょうか?今回は、アメカジ野郎にとっての「スニーカーブーム」とその終焉について考えたいと思います。



 まず、注意してみなければならないのは、アメカジ野郎の言う「スニーカーブーム」と現実の「スニーカーの一般化」(単なる消費行動である「スニーカーブーム」と混同しないようこう呼びます)には大変な乖離があると言うことです。




 現在では、ほんの10年前と比べて、スラックス+スニーカーやワンピース+スニーカーという組み合わせが全く違和感のないものになっています。この価値観の変容は、未だに90年代の雑誌GET ON!やBOON、LIGHTNING等を聖典化し同じ価値観をこすり続け、メーカーに都合のいい情報を疑うこともせず信じ切り、知識だけブクブク太らせ何十年経っても自分の価値感一つ持つことができないモノ依存のアメカジ野郎の大好きな「スニーカーブーム」の文脈では決してありません。





 人々が自身の生活を良くしようとクリティカルに思考し、革靴をスニーカーに置き換えて暗黙のドレスコードを打ち破るとき、そこにあるのは他人の言いなりでレアスニーカーを買うアメカジ野郎の正反対の自立した価値観です。少なくとも、矢印が自分に向いた行動でしょう。




 しかし、矢印が他者にしか向いていないアメカジ野郎なら、誰かが決めた価値観=知識に喜んで服従しますから、雑誌が「この革靴をスーツに合わせろ」と言えばその足で買いに行くように、他人が決めてくれたほうが楽なのです。ルールがないと何もできないのがアメカジ野郎なのです。




 アメカジ野郎は、他人から見下されることを最も恐れていますので、スーツに革靴を履いた方が尊敬されるなら絶対に「自分が快適だから」という理由のためにスニーカー通勤などするわけがありません。だったらもっと自慢できる革靴を買ってもっと他人の注目を集めたいのです。そして、ちっとも辛くない、足なんか痛くない素振りをして、いつの間にか革靴マニアを自称するようになり、シューケアセットを買い求め、下品な鏡面仕上げで周囲を威嚇してウットリ悦に入るでしょう。とことん他人が軸なのです。




 一方、アメカジ野郎の卑屈なモノ選びに反して、2010年ごろからの「スニーカーの一般化」は、その頃から急激に人口に膾炙するようになった「多様性」の一角だと考えられます。画一的な集団よりも多様性のある集団の方が成長し、生き残りやすい、という大きなメリットを、強制されたルールや同調圧力は損なってしまうことが明らかになり、単に「ルールだから」と従うことよりも各々の人間がクリティカルに考えを持って行動することが大切にされました。その結果、革靴をスニーカーに置き換えて損なわれるものよりも得られるものが大きいと考えたのならそうすることを受け入れる社会の雰囲気が出来上がっていったのです。



 この、「社会の雰囲気が出来上がっていった」ことのプロセスはとても重要で、革靴をスニーカーにするという一歩は小さなものですが、靴選び一つとっても自分が生まれながらに「選択肢」を持っていることに気付き、自分で考えて良いのだということに気付いた人間は、何十年も前の雑誌の見開きに印刷されたエアマックスとポンプフューリーを母親を初めて見たアヒルの赤ちゃんのように未だにヨチヨチ歩きでケツを追いかけ、盆のアブラゼミのように「矯正靴製造からスタートした(某シューズ)は(某デザイナー)も『雲の上を歩いているようだ』と言ったんだよ」と繰り返し繰り返し刷り込んでくるメーカーを神格化し最高の履き心地と信じてしまうアメカジ野郎の思考パターンとは全く違っているのです。アメカジは基本的に人から選択肢を奪い、限定された組み合わせの中に人の装いを閉じ込めます。他人に全てを決めてもらったほうが楽なアメカジ野郎はその狭い狭い価値観の中でしか靴を選べませんが、本来人間は自分の思考でモノを選んでいいのです。




 自分の思考でモノを選ぶ、とは「革靴は疲れるし自分の仕事にドレスコードは不要だから失礼でない程度のスニーカーを選ぼう」という人間の行動であり、スマホを眺め続けて情報を漁り、本当は欲しいのか欲しくないのかもう自分にも分からないレアとされるスニーカーを高額をはたいて購入し、届いたスニーカーを一目見たら一瞬の興奮は冷め、その後は加水分解に怯えながらジップロックに詰め込んで視界から消す営みのことではありません。または、「他人と違ったものが欲しい」という何よりも他人を意識した人間の常套句でしか自分を表現できない人間が自分の価値をモノに委託してレアな価値観を持つ自分を代弁して貰うことでもありません。




 自分が快適に生活するために革靴をスニーカーに変えるという、「スニーカーの一般化」には、常にこの「自分のためにスニーカーを利用する」という主従関係があるはずですが、アメカジ野郎は「スニーカーのために自分を磨り減らす」といういびつな関係に喜んで嵌っているのです。



 アメカジ野郎がスニーカーに注ぎ込んだ莫大な時間や金は、本来は彼らが彼ら自身のために使われるべきリソースだったはずです。もともと自分に向けられるべきエネルギーや時間、お金だけでなく、注目や愛着すら自分に向けず、その結果に放置されっぱなしの可哀想なアメカジ野郎はちっとも成長することが出来ず、業界のみがブクブク太り続けてもっとよこせ、もっと見ろと脅迫し続けるのです。これを搾取と気付かないアメカジ野郎には同情を禁じえません。




 昨年半ば、アメカジ野郎の多くは「スニーカーブーム終焉」とは高額な転売マーケットの規模が小さくなるだけで、正規販売に影響は無いだろうと考えられていました。その裏には、「転売ヤーの価値観と俺たち玄人は住む世界が違うので、転売ヤーが去ればスニーカー市場は正常化するはず。」という見下しもあったことでしょう。しかし、現実はもっと恐ろしいものだったのです。


長文化したので次回へと続きます。


 今回もお読みいただきありがとうございました。

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