アメカジ野郎のジージャンにハンドポケットはあるのでしょうか


みなさんは、「ジージャン」、つまり「デニムジャケット」をお持ちですか。私は持っていません。以前は持っていましたが。

 デニムジャケットとは、デニム生地で作られたジャケットです。特に「ジージャン」と呼ぶ時は、丈が短く襟付きでボタンで前を留めるお馴染みのジャンパーのことを指すでしょう。袖を切って切るとお笑い芸人のスギちゃんがトレードマークとなります。この記事では、いわゆるジージャンについて書きますので、それらを「ジージャン」と呼びます。

 このジージャン、アメカジ野郎にとって重要なアイテムなのですが、基本的にはデニムパンツよりは優先順位は低いです。理由としては、アメカジ野郎が大好きなデニムパンツを履いてジージャンまで着てしまうと、「デニムオンデニム」状態になってしまうからです。

 はっきり言ってアメカジ野郎がデニムオンデニムでうろついていようがどうでも良いのですが、アメカジ野郎的には上下のデニムのメーカー、年代、色落ちの段階、生地の産地、など、彼らが納得行くまで合わせなければならないらしく、気味の悪いこだわりで身動きが取れなくなってしまうハードルの高い装いなのです。(これは本当に個人的な意見なのですが、アメカジ的に整合性のあるデニムオンデニムコーディネートはアメカジ野郎にとっては理想的かも知れませんが、本来はデニムの上着とパンツが同じ年代の同じ素材、色落ちになることの方が圧倒的に不自然なのではないでしょうか?一人の人間が自分の生きている人生の時間に出会う服を自然に手に取って着ていれば、そこにアメカジウンチク的な妙な整合性が現れることはあり得ないはずです。パンツとジャケットではパンツの方が色落ちも痛みも早いですし、真夏はジャケットを着ないことなどから買い替えサイクルの公転周期はちぐはぐなのは当たり前で、どちらかが妙に真新しいことはむしろ自然なはずですが、アメカジ野郎にはそれが我慢ならないのです。例えば新品のジャケットとダメージジーンズを履いていたら、他のアメカジ野郎に馬鹿にされることは目に見えているからです。自分のために自分が選んだコーディネートに全く価値を見出だせず、自分不在のウンチクパズルと他人の評価の方がよっぽど価値があると信じ込んでいるアメカジ野郎の虚しさ、結局それはアメカジメーカーや雑誌、メディアがアメカジ野郎の人間にスポットを当てずにモノと知識にのみ価値を与え、それを着ていない状態の人間の自己評価を叩き潰していったことが原因でもあるのです。もう一方の原因は、そこまで蹂躙されても従うだけで反応一つできなかったアメカジ野郎本人の問題です。)

どうでも良いデニムオンデニムコーディネートのことは一旦置いておいて、ジージャンに話を戻します。

ジージャンは、定期的に流行を起こしますが、2000年代初期にユニクロ等の手頃な価格のメーカー発のものが多く生まれ、レディースで流行します。スキニーパンツブームも重なったこと、この時点では90年代的な男性型アメカジの評価もどん底まで落ちていたこともあり、ジーンズの流行の発信地は完全にレディースに移りました。そしてジーンズの中心地は新興メーカーに移ります。現在皆さんがお持ちのジージャンには格安な新興メーカーのものも多いのでは無いでしょうか。

 新興には新興の、老舗には老舗の良さがあるとは思いますが、アメカジ野郎が主な顧客である老舗にとってジージャン作りにおいてとてつもなく大きな足枷があることをご存知でしょうか?それは、「ハンドポケット」です。

ジージャンにとって、ハンドポケットは物を入れる本来の役目以上に、手の置き場になって安心感を増したり、涼しい時期に暖を取ったりできるなど大変便利なものです。ないよりはあったほうが親切ですので、新興メーカーでは躊躇わずつけることが多いです。皆さんのお持ちのジージャンにもポケットはついていませんか?

この便利なハンドポケットを大変恐れている人々がいます、それこそがアメカジ野郎です。

なぜ、そんなに便利なハンドポケットをアメカジ野郎が恐れているか、その理由は「そういうことになっているから」としか言いようがないのです。いわゆるヴィンテージのジージャンにはポケットが付いていません。当時どんな理由があったかは知りませんが、現代は荷物も多く、寒暖差も大きいですからポケットは確実に便利なはずです。それでもアメカジ野郎は、「そういうことになっているから」と絶対にポケット付きのジージャンを着ません。このことはアメカジ野郎以外にはほとんど知られていないので、一般的な生活を送られている方には驚かれるかも知れません。

「そうは言っても、アメカジ野郎だってポケット付きのジージャンを選択する場合もあるのでは?」と思うでしょうが、絶対にないのです。

「そこまでポケットを嫌悪するなら、流石に理由があるのでは?」と思うでしょうが、本当にハッキリとした理由はないのです。

つまり、アメカジ野郎は現実に、ハッキリとした理由もないまま、ポケット付きのジージャンを拒否しているのです。信じられないでしょうが、メルカリ等で価格の高いジージャンを探していただければ一つ残らずポケットがついていないことにお気付きになるかと思います。

そうしてアメカジ野郎がポケット付きのジージャンを着ないので、老舗アメカジメーカーはジージャンにポケットを付けることができません。そして、ポケットを付けないので、無意味なこだわり持たずポケットを必要としているアメカジ依存ではないほとんど全ての市民である一般人にはただただ不便なポケット無しジージャンが売れません。ですから、当然ポケット付きのジージャンをラインナップしますが、するとそれを買いもしないアメカジ野郎から「ポケットを付けるなんて日和ったな」とこき下ろされるのです。アメカジ野郎はアメカジの普及と発展にブレーキをかけ、メーカーにはアメカジ野郎自身の僅かな想像力を超えない狭苦しい範囲内で古臭いままで居ろと束縛するという、まさにアメカジの敵はアメカジ野郎なのです。その点ではメーカーもアメカジ野郎も共依存的であるとも言えます。

私がかつて聞いたアメカジ野郎がジージャンにポケットがない方が良いという言い訳に、「ポケットがあるとジージャン本来のシルエットが崩れる」というものがありますが、それはあり得ないほどの大嘘です。

まず、アメカジ野郎自身が常に聞かれてもいないのに吹聴している、「アメカジはタフな作業着」というタテマエと「シルエット」が真っ先に矛盾しています。1930年代にリーバイスが発売した初期のジージャンは、人間を美しく見せるシルエットとは無縁のチグハグなカタチをしているのです。作業着ですから、シルエットに重きを置いていないのです。つまり、ジージャン自身が守り通したい美しいシルエットというものをそもそも持ち合わせていないのです。また、作業着であるならそれこそ便利であるべきだと思うのですが、なぜかアメカジ野郎はポケットという大きなメリットだけは断固拒否するのです。穴だらけ矛盾だらけでも、考えることが苦手で本質を見極められないアメカジ野郎は「シルエットが崩れる」と言う言い訳を覚えさえすれば「シルエットにこだわるファッショナブルな自分」が演出できる気がしてしまい、その言葉以上に自分の考えを持つことも出来ずに思考停止のドブにはまって身動きが取れなくなってしまうのです。

そもそも、アメカジ野郎は一般的にファッションに「シルエット」などを考え、判断できる美意識を持ち合わせていません。アメカジ野郎はとにかく知識、ウンチクの類の他人から得たものしか持っていません。自らの心から湧き上がる「センス」が皆無なのです。逆に言うと、「センス」がなく自分の考えでファッションを楽しむ能力の無い人間は、センス抜きでも知識やウンチクでなんとかなりそうな(錯覚ができる)アメカジにハマるのです。ですから、アメカジ野郎が装備品を揃える古着屋では、ジーンズの年代やら色落ち、モデル名など購入者の人間としての個性など全く関係ないモノ中心の消費が行われ、購入者の体格より大幅にオーバーサイズでも売れるのです。シルエットもクソもありません。

ジーンズにシルエットというファッションの基本のキが育たなかった原因は、レプリカブームにもあります。各ブランドの過去の遺物を無断で盗用し続けたレプリカジーンズは、古い作業着そのものである四角いジーンズにそっくりなほど評価されたこともあり、シルエットを洗練させる必要も経験もなかったのです。奇しくも、2007年のリーバイスによるレプリカブランドへの大量訴訟以降によって単なる盗用が不可能になり、ようやく「シルエットにこだわる」というレプリカブランドが出てきました。それまでしっかりとシルエットにこだわり、オリジナルの商品を作り続けていた他ブランドにとってのスタートラインにアメカジもようやく立ったのです。(それ以前のレプリカブランドが言う「シルエットへのこだわり」とは、基本的に過去のジーンズをどれだけうまくマネできたかという意味です。にも関わらず、過去の遺物をこすり倒すだけのおままごとだけをしていただけのアメカジ野郎は何故か自分こそが本物志向の玄人だと信じ込んでいて、ちゃんと自分自身のアイデアやシルエットで勝負していた他ブランドのことをフェイクかのように馬鹿にしていたのですからお笑いです。)

アメカジ野郎は何も考えていません。古ければ古いほどカッコいい、という知識にも本来は納得行っていません。なのに、「古いジージャンにはポケットがない」という情報を絶対の真実だと信じ込んでいて、手が入れられない、モノが入らないポケットなしのジージャンを身体が拒否してもありがたがるのです。あげく、アメカジ野郎同士ですらポケットの無いジージャンを着ている他人を見ても何も言いません。ジージャンのシルエットになど本来彼らの心は何も感じていないからです。その代わり、ポケットの付いたジージャンを見つけでもしたらそれ見たことかと罵倒を繰り返し、ポケット無しのジージャンを着ている自分のポジションを固めようと足掻くのです。

「ダサい」のはどちらでしたか?ポケット無しのジージャンを着ている人をほんの少しでも尊敬できましたか?アメカジ野郎にすら、なぜジージャンにポケットがない方が良いのか全くわかっていないのにそのシステムは脅かすこともできないほど強固で、そしてそれを盤石なものにしているのはポケット無しのジージャンを押し付けられているアメカジ野郎そのものなのです。ポケットありのジージャンを着れば即座にバカにされるような監視し合うファッションは本当に本物志向のですか?後世に残したいですか?残す必要がありすか?

アメカジ野郎には悲しいことに自分自身で物を考えたり判断したりする力が無いのです。だから、自分の着るジャンパーにポケットがあっていいかどうかすら他人に決めてもらわないといけないのです。そして、その間違った価値観に抗う自主性すらも彼らに望むことはできませんので、アメカジ野郎はいつまでもいつまでもポケット付きのジージャンをバカにすることだけを心の拠り所にして暮らしていくのです。

もうすぐクリスマスです。サンタさんが、アメカジ野郎に誰にも馬鹿にされないポケット付きのジージャンを贈ってくれくれないかと思います。もちろん、サンタからプレゼントを貰える良い子のアメカジ野郎が居ればの話ですが。私は、アメカジ野郎がサンタから見放されてムチを握ったクランプスにお仕置きされないか、少し心配ではあります。ただでさえ虚しいウソだらけの服装に人生を縛り付けられたアメカジ野郎、ポケットの有無ひとつですら他人の価値観で決められてしまう虚しい虚しい彼らに、愛と居場所、治療を与えこそすれ排除のムチが浴びせられないことを祈っています。

メリー・クリスマス

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