人殺しを好きな人はいます


・倫理的に問題がある人物を好きな人が許せない方はブラウザバックしてください
・愚痴に近い内容なので読んでも教訓を得られない可能性が高いです




もうすぐ同窓会なので思い出したことがある。
数年前の部活で、部活仲間に(本人には自覚なく)いわゆる「推し」を(巻き添え的な形で)否定されたことだ。

「人殺しを好きな人なんていないよ」

いやいるだろ。
たしかに、脳内の検索ボックスに入れると「○○ 虐殺」「○○ 被害者数」みたいなサジェストが出てくる人について、相手(会話の相手ではない、話題に出ている人。仮にAとする)は好意を持っているか嫌悪しているか、という話をしているときに私が「好意を持っている可能性がある」言う意味のことを言ったら、大多数の人は「そんなことない」と出力するかもしれない。
でも、一般論として目の前の会話相手がそういう対象に好意を持っている(そしてそれを明かしてくれるほどの信頼度を自分が獲得している)確率はとてつもなく低いかもしれないけど、ゼロではないだろ。現にそれを言ってきた同級生に対する私の信頼度はその直前まであったし。

私は、広義の人殺しを二人、いわゆる「推し」のポジションにおいて生きている。
単に、一般知識の範囲内では脳内検索ボックスに「虐殺」「被害」とかサジェストされないだけで、被害者が確実に一定数いるのが一人。
直接手にかけたとは断言されないが、ピタゴラスイッチ式(といっても因果関係が明確)に人が亡くなっているのが一人。
なので私は「あなたは人殺しを推していますか」と聞かれたら「はいそうです」と言うくらいに私はその二人を人殺しだと認識している。


それに、その会話の時は私なりの常識として
・相手が好意を持っていると想定してもいい人の条件とは、
 好かれそうな情報(一定の属性を持つ相手に丁寧に接したことがある、など)が(真偽を問わず)あり、それを相手が信じている可能性が高いこと
 相手が知っていると仮定しても良いほど知名度があること
 である
・○○については、一般人がネット検索すれば見つかる程度に好かれそうな情報が流れていて、義務教育に乗る程度に知名度がある
という条件から、「Aは○○に好意を持っているかもしれない」といったわけで、自分なりに理屈を通したつもりなのだ。

たぶんそのときの話し相手の考えはこうだ。
・一般に人が好きになる対象、あるいは信頼度が一定以下の相手に好きだと言える対象というのは、ある程度倫理観に問題がない人物でなければいけない
・○○は倫理的に大変問題がある
・その「問題がある」というのは、人殺しであること、または脳内検索のサジェストで真っ先に「虐殺」と出てくる人物であること(一般にこの状態を「人殺しである」と言い代えるのかもしれない)である
・よって、Aが○○に好意を持っていると言う可能性は低い
・会話相手(つまり筆者)もこの理屈を脳内に持っているだろうから、この理屈を「人殺しを好きな人なんかいない」とまとめて発言してもよい

コミュニケーションが上手で、嗜好と世間の認識とのずれが少ない人や、嗜好とコミュニケーションを切り離せる人との会話なら正しい出力であっただろうし、話し相手のコミュニケーションは大半がそういう相手とのものだっただろうから、仕方ないのかもしれない。
でも、コミュニケーション中に起こった事故だったと思う。

自分が、Aを人殺しが好きだと公の場で言うような人間だと思っていた(あるいは、人殺しが好きだと公言することの重みをわかっていなかった)ことは反省点だ。

でも、会話中に明かすかはともかく、倫理観と好意が連動していない人を想定するのはそんなに難しかっただろうか。
人殺しが好かれている例を思い浮かべることは本当にできなかったのだろうか。
「○○を好きになることはない」と言い切ることがなぜ可能だったのだろうか。

これが4,5年前の出来事であること、○○の好かれそうな情報が半年から1.5年に一度の周期でインターネット上で話題になることから、同窓会であったあのときの話し相手が○○のファンになっている可能性もなくはない。
そうなっていても私は「元部活仲間」としてその人に接したい。
自分もコミュニケーション事故を起こす可能性があるし。


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