見出し画像

降りてきた露悪的本性を受け取って。

  昨日、このイベントに行ってきた。一言でいうと、退屈で苛立ちを覚えた。理由はなんだろうか。
  途中、喘息の発作があり何度か席をたった。休憩時間に敢えて外に出て小雨を浴びた。
  仕事からのパーソナルトレーニングで疲れていたから?ひどくお腹が空いていたから?
  いや、違う、もう言ってしまおう。「私のほうが“コンテンツ性”が高く、もっとオモローな話がテンポよくできる」と確信してしまったからだ。 #またここでも比較し競争の理に囚われているのだが。
  小山さんの新聞社での競争の話だったり、飯田さんの無自覚な亭主関白仕草へのツッコミとそのエクキューズだったりはとても興味深く、また、心地よく聴けた。
  だがまあーーーーー、その。しょーみ、飯田さんの本買わなくてよかった、読書メーターの感想チラ見で十分だと思えてしまった。
  貧乏性なので、アレに3,000円弱かぁ~という気分である。 
「おりる思想」について、哲学的な考察を垂れるなら、「緩い脱構築主義」くらいに捉えておけば良い。
 それよりも、「おりる」をフランス語の「decendre」とすると私にとって意義がありそうだ。
  それは、原義として私に「降りてきた」露悪的な性格―たとえばこの投稿、たとえばスノビズム的な態度、たとえば(似非)京都人仕草―と向き合うことにある。ここからは「降りられない」。なぜなら、それが私の目指す「自律」だからだ。
  そして無聊の慰みに同じく集英社新書、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を買ったった。
下記イベントは心身共に準備して臨みたい。(宣伝)

  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?