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脳の燃費

 読者諸氏はドキュメンタリー番組などで,次のような光景を目にしたことはないだろうか.まだ湯気が立っているような生まれたての仔ウマが,か細い足を精一杯踏ん張って立ち上がり,程なくして母ウマと共にサバンナを歩き出す様子である.常に危険にさらされている野生動物たちは,たとえ出生直後であっても自力で立ち上がり,移動できるものが少なくない.一方でヒトはどうだろう.生まれてからというもの,大人の世話無しでは生きることができず,一年ほど経ってようやく歩ける始末である.それも,よちよち歩きができるだけであり,自力で外敵から逃げたり,食物を手に入れたりするなどもっての外である.

 こんな悠長なことでは,野生の生活ではひとたまりもないのではないだろうか.一体なぜヒトは,こんなにもゆっくり成長することになってしまったのだろう.

ヒトはなぜゆっくり育つ?

 そもそもヒトの子供時代は,ほかの霊長類と比べてもずいぶん長い.ヒトが繁殖を開始できる年齢は,平均的には17.3歳であり,チンパンジーの13歳やゴリラの9.3歳,オランウータンの14.3歳と比べると遅くなっている ※1.加えてヒト(!Kung族,Ache族)の離乳年齢は早く,2.8歳となっている(チンパンジーは4.8歳,ゴリラは3歳,オランウータンは6.0歳).つまり,母乳で育つ「赤ん坊時代」ではなく,それ以外の食糧によって育つ「子供時代」が長い.余談ながらこれによってヒトは他の霊長類に比べて出産間隔が短くなり,繁殖効率が良くなったという説もある.

 ではいったいなぜ,ヒトはこのようにゆっくり育つのだろう.多くの人類学者がこの問題について議論を重ねてきた.多くの仮説に共通していたのは,ヒトでは「学習と脳の成長のために時間やエネルギーが多くかかるせいだ」という主張であった.そこで2014年になり,アメリカ・ノースウェスタン大学のKuzawaらは最新の神経科学研究の成果を用い,ヒトが子供から大人になる過程で,脳がどれほどエネルギー(ブドウ糖)を消費するかを調べた.すなわちPET (陽電子放射断層撮影,脳のブドウ糖代謝を測定できる)とMRI(磁気共鳴画像法,脳の血流を測定できる) によって得られたデータ(PETについては65人,MRIについては402人分のデータ)を分析したのである※2, ※3.

脳と身体の「トレードオフ」

 結果,成人の脳が要求するエネルギーは全身のエネルギー要求の10%程度だった.脳の重さは体重の2%程度※4なので,脳は非常に燃費の悪い機械だということになる.また,脳が一日で消費するエネルギー量は,驚くべきことにわずか5歳でピークに達していた.5歳の幼児の脳は,大人の脳の倍近く(男児で1.88倍,女児で1.82倍)のエネルギーを消費していたのである.このとき幼児の脳が要求するエネルギーは,全身のエネルギー要求量の40%以上を占めていた。さらに,身体の成長が著しい時期ほど脳のエネルギー要求量は少なくなることが分かった.これらの結果によってKuzawaらは,「ヒトは脳を成長させるために多くの栄養を必要とするので,成長に長い時間を要するのだ」と結論付けた.

 ある一つの事柄を達成するために別の事柄を犠牲にしなければならないような状況をトレードオフというが,さしずめヒトの成長過程では「脳と身体のトレードオフ」が起きているということになる.


 先史時代のヒトは,じっくりと時間をかけて大人になるまでに,直立二足歩行を習得し,食糧を得る方法を習得し,さらに言語や社会生活上の慣習を習得してきたのだろう.

 現代のヒトも,直立二足歩行を習得し,言語を覚え,さらに学校をいくつも卒業し,職を見つけ,それから税金の納め方やら,携帯電話の使い方やら,車の運転やら,飲み会での振る舞いやら,結婚式の作法やら,じつにさまざまな事柄を覚えなければならない.そうこうしているせいか,現代日本の平均初婚年齢は,先に述べた「生殖開始年齢」をさらに10年ほど過ぎている.尤も,その分寿命も先史時代に比べてぐんと伸びているわけなので,ここはひとつ長い「子供時代」をのんびりと生きてみるのもよいのではないだろうか.

(執筆者: James)


※1. Hawkes et al. (1998), Grandmothering, menopause, and the evolution of human life histories, PNAS vol. 95 no. 3 1336-1339

※2. Kuzawa et al. (2014), Metabolic costs and evolutionary implications of human brain development, PNAS vol. 111 no. 36 13010-13015

※3 MRIとPETについての詳しい解説はこちら(生理学研究所)

※4 自身の脳の大きさを知りたい向きはこちらへ.脳容量の測定実習が日本人類学会教育普及委員会によって不定期に行われています.

※5 関連記事 「耳の奥の子供時代」


これまでのあんそろぽじすとの記事は以下からご覧ください。

https://note.mu/anthropologist/m/mf200d5ddbbe8?view=list

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