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はじめに

人類学という学問があります。この学問がめざしているのは、人類という生きものを総合的に理解することです。そのため、人類学者は、アフリカの砂漠ではらばいになって骨を掘り出し、ジャングルの奥へわけいって腰ミノだけしか身につけていない人びとと交流して血を採取し、カビ臭い書庫から探検家の記した文献を探し出しデータベースを作ります。


人類学の黄金時代は探検とともにありました。探検による「自分と似ているけれども違うヒトビト」との出会いを通じて、人類に共通する部分とそうでない部分を明らかにし、「人間とはなにか」という考えをアップデートしていく、これが人類学の役割でした。その一方で、人種差別の根拠として使われたり、植民地主義の尖兵として調査をしていたという負の側面もありました。

しかし、地球がすみずみまで探検し尽くされた現在、これまで人類学をかりたててきたわかりやすい未知は、世界から駆逐されました。こんな時代に、人類学が探求すべき未知は、人類学が果たすべき役割とは、そして人類学の価値とは、いったいなんでしょうか?人類学はその存在意義を失い、歴史に幕をおろすべきなのでしょうか?


われわれはそうは思いません。人類学がもたらすことのできる新しい価値は、いたるところに芽吹きつつあります。

たとえば、人類学者が世界各地から集めた膨大な遺伝子データをもとに、多くの病気に関係した遺伝子が明らかになっています。こうした発見は、病気のリスクを明らかにするとともに、将来的にはさらに発展的な医療の基礎となることでしょう。また、人類は地球上のあらゆる場所で暮らしていますが、遺伝子にかぎらない、たとえば腸内細菌や衣類・食習慣といった形で、長い時間をかけて,人びとはその土地その土地の環境に適応してきました。生物と文化の多様性が保存されているからこそ可能になるこうした発見は、健康科学の幅を大きく広げることにつながります。もしかすると将来、さまざまな民族から採取した腸内細菌を使った健康管理が当たり前になる時代がくるかもしれません。

社会は変わりつづけ、誰もがその変化を予測しようとやっきになっています。人類学者は、出生減少や民族同化といったさまざまな社会現象が、家族形態、結婚のパターン、言語といった、人類学で注目されてきた要因と相互に関連しあっていることを発見しています。現代のデータを使うだけでなく歴史をさかのぼることで、人類の歴史の中で起こってきた文明や社会の変化のパターンをみつけだし、理論化を試みているのです。さきほど挙げた要因は、多くの分野では軽視され見過ごされてきた要素でもありますし、われわれが過去の歴史と無縁ではいられないことの証明でもあります。未来を見通すことはいまだ達成されていない夢ではありますが、人類学の視点をとりいれることは、あなたの未来予測に新しい軸を加えてくれるでしょう。

人類学の可能性はこれまでに挙げたふたつにとどまらず、もっと多様で多角的です。人類学者は、世界中のあらゆる人類集団の比較から、われわれが常識とよぶもの――一夫一妻、美醜の基準、公平性の意味――の脆さを明らかにしています。さらには人類以外の霊長類との比較をつうじて、われわれのからだやこころが進化の歴史の中でどのように形づくられてきたのか――われわれがいつ・そしてなぜ四本ではなく二本足で歩くようになったのか、出産で苦しむのはなぜなのか、人間しかもちえないと思われていた利他性・自己犠牲などの徳や、偏見・愚かさの起源がどこまでさかのぼることができるのか――を探っています。こうした研究成果は、人間の内面に対して、哲学や宗教とは違った角度から光をあてています。

民族対立・文化摩擦・人種差別に対して、人類学は膨大な研究成果を蓄積しています。加えて、人類学がおかしてきた過ちの歴史を知ることは、われわれがこうした問題に向き合う上で、どんな落とし穴にはまりやすいかを理解する助けとなることでしょう。こうした研究成果を、どのようにして実際の問題解決に活かしていくか、そのために何を明らかにしなければならないのか、まだまだ手さぐりの段階です。しかし、こうした価値の芽を摘み取ってしまうことは、将来さまざまな問題を解決する手段をてばなすことに繋がると人類学者は考えています。


社会、政治、経済、技術、われわれをとりまくすべてのものが急速に変わりつつある現在、大学・研究所・博物館といった研究・教育機関も、その役割を見なおされつつあります。

価値は、人に認められることによって生まれます。

根づかなかった価値は、忘れ去られ、生まれなかったことにされます。これまでも、人類の歴史のなかで、忘れ去られ消えていった価値が数多くあったことでしょう。

さきほど挙げたような人類学の価値は、まだまだ根づいているとはいえません。しかしわれわれは、こうした人類学の価値は、忘れ去られてしまうには惜しいと思っています。

われわれ人類学者は、この変わりつつある社会の中で、自分たちの手で新しい価値を生み出し、それを社会に問いかけています。

このノートでは、人類学の研究成果や現場の様子を紹介します。こうした活動を通じて、人類学の新しい価値を模索し、つくり、広めていくことがこのノートの目的です。

気合を入れてこんな文章を書きましたが、研究成果をどのように楽しむかはあなた次第です。思索にふけるもよし、エンターテイメントとして楽しむもよし、もちろん疑ってさらに勉強することも大歓迎です。

次のノートからは、めくるめく人類学の世界が始まります。

ようこそ、人類学へ。


これまでのあんそろぽじすとの記事は以下からご覧ください。
https://note.mu/anthropologist/m/mf200d5ddbbe8?view=list

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