スタートライン
暑い初夏の午後。ツーストロークの細く高いエンジン音と、タイヤのスキール音が響く。アスファルトには陽炎がゆらめき、溶けたゴムの匂いが風に運ばれてきた。
「っ…はあ…」
俺は顎紐の留め具を外した。座席から立ち上がり、コースの外に出る。ヘルメットを脱ぐと、暑くこもった熱気が一気に解放された。俺は水を求める魚のように、肌に張り付くフェイスマスクを剥ぎ取った。
"56.335"
「遅い…」
グローブを取って、ベンチに放り投げた。
俺が乗っているのは、レーシングカート。クラスによっても違うが、最高時速は110キロ。安全装置もついていなければ、シートベルトもない。身体はシートから剥き出しで、身体を守ってくれるのはスーツとヘルメットだけ。危険を省みていては、勝ちなんか得られはしない。
「お疲れ様っ」
梨名が俺に冷えた水を渡してくれた。
「ありがと…」
幼馴染の梨名はいつも、こうして俺の練習についてくる。チームに所属している訳でもなく1人で走る俺にとっては、貴重なマネージャーのような存在だった。
「…全然ダメだ…」
「なんでぇ?この前よりコンマ2も速くなったやん」
「それじゃ全然戦えないんだよ…」
もちろん、タイムは悪いわけではなかった。だが、ライバル達はどんどん成長し、速くなっていく。前のレースでも、あっけなく18位だった。最下位から2番目。
「ふーん…でもちょっとずつ頑張ったらいいやん?」
「ああ…」
突然、待機場でコースを見ていた人たちがどよめいた。
「54秒台!?」
「マジか…何なんだあの子…」
口々にその驚きを口にする。その視線の先には、赤色のマシンが走っている。白のラインが目立つ赤いメタリックのボディは、日の光を反射しながら颯爽と駆け抜けていく。その後を追うように、同じカラーリングのマシンがもう一台走り抜けていった。
「すごっ…」
梨名も隣でそのマシンに釘付けになっていた。
「……あいつらか…」
レースの世界では、1秒の差は僅かとは言えない。世界最高峰のレースカテゴリ、F1での予選タイム差は、参戦する20台ほぼ全てのマシンが1秒前後のうちに収まる。この世界では、ドライバー達は1000分の1秒まで極限の速さを競うのだ。
やがてその2台はピットレーンで止まった。ドライバーが立ち上がり、チームのメカニックがマシンを回収していく。仰々しい人数がドライバーに集まって、グローブを受け取ったり、ドリンクを渡したりしている。ヘルメットを脱ぐと、さらりとした長い髪が現れた。あのドライバーは、女だ。それもそのチームのドライバーのどちらも。山﨑天。今年参戦したばかりだが、俺が参戦するクラスで、首位を独走している。もう1人のドライバーは、森田ひかる。彼女は去年から同じクラスで走っているが、あのチームのナンバー2。クラスのランキングでも、上位ふたつはずっとあの2人が占めている。さっきコースを走っている間にも、2回ほどあの2台に抜かれた。
すると、山﨑がボトルを持ったまままっすぐこちらに歩いてきた。俺の前で立ち止まり、腰に手を置いて仁王立ちになる。
「あのさぁ、あんなノロノロ走るんやったらさっさと退いてくれへん?邪魔」
「は……?」
「えっ…」
流石の梨名も、驚きの声を漏らしていた。彼女はそれだけ俺に言うと、チームが集まる方へつかつかと歩き去った。呆気に取られているうちに、森田も小走りでこちらにやってきた。
「ごめんね…?あの子、走るとどうしても熱くなっちゃうから……」
「はあ…」
「また頑張ろうね、じゃ」
森田は山﨑のあとを追っていった。
「何なんあの子…?ムカつくわ…なんか言い返したりーや…!」
「……」
もちろん、死ぬほどムカついた。だが、何も言い返せる言葉がなかった。この世界では、速さが全てだ。俺より遥かに速い彼女に言い返せることは、何もない。
「先、着替えて車戻ってる」
「あ…うん…わかった…」
ヘルメットを拾い上げ、グローブやフェイスマスクを放り込む。ヘルメットに残る湿気と熱が、頭に昇る血を加速させた。
レースは来週。今はお先真っ暗だった。
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