かかげた手の向こう、幸せのゆくえ
『新参者』
この言葉を聞いた時、4期生はいったいどんな思いがしたのだろうか。
東急と秋元康が会食をして決めた(偏見)、乃木坂5期生、日向坂4期生、櫻坂3期生という坂道シリーズの最も若い期が900というキャパでそれぞれ2時間のライブパフォーマンスをするというこのイベントは思わせぶりなティザー映像と共に『新参者』と銘打たれ発表された。
この『新参者』は当初ファンの間で噂されたような「3グループの新期が合同でひとつのライブや舞台を行う」といったスキャンダラスなものではかったが、だからこそ、イベントのもつ意味はそれぞれのグループで微妙に、そして確実に異なるものになったと感じる。
特に、この『新参者』を最も必要としていたのは、日向坂4期生だったのではないか。
井上和という期のエースがグループの表題センターをつとめ、世代交代の成功を印象付けた乃木坂5期生は、もう既に乃木坂46の主力の一部と言っていい状態にあり、彼女たちがこの段階で900キャパのライブハウスの距離感でパフォーマンスすること自体がミスマッチで贅沢な話。
本体の稼働と並行して、この集中した日程で1日2公演をこなす日もある『新参者』に参加することが過度な負荷とならないかという心配が先に立つほどだ。
それでも彼女たちは彼女たちであるというだけでこのイベントの成功を約束する存在だろう。
間違いなく恵まれた環境にいながらもそれに驕ることなく自然体で個性を生かし続ける彼女たちの壁になるのは、他者ではなく、自らが強者ゆえのジレンマなのかもしれない。
おそらく『新参者』に最もフラットに挑めるのは櫻坂3期生だろう。
過酷さを演出したドキュメンタリーを経て、その強みを「パフォーマンスの強度」という形で見事に認知させた彼女たちは、すでにライブの場数を踏み、フェスでのパフォーマンスも経験し、紅白返り咲きを果たしたグループの上昇のきっかけのひとつとさえ受け入れられている。
今回の『新参者』においても、櫻坂3期のパフォーマンスをみてみたいという動機でチャンネルをあわせる他グループのファンがいても驚かない。坂道グループファンの間で、それほど「櫻3期はパフォーマンスが素晴らしい」というイメージが共有されている感覚がある。
彼女たちにとって『新参者』は糧であり、誇示であり、強化の場だ。その点において、1ヶ月の間続く日程や少ないキャパでのパフォーマンス等も、彼女たちには追い風になり得る。
ファンと物理的に近い場所で、自分たちの強みをフレックスする。「過酷」が糧になることも、彼女たちはもう経験済みなのだから。
そして、もっとも切実に、この『新参者』を「必要な機会」として受け止めているのが日向坂4期生だ。
加入して1年が経ち、今現在の彼女たちから伝わる意識のなかで、最も強いのが「不安」であると感じることが、残念ながら少なくない。
この3グループの中では乃木坂5期生についでオーディションが開催された日向坂4期生は、言わば次女的な立ち位置になる。
しかし3女の櫻坂3期生が自分たちの強みを早々に打ち出すことに成功する様子を尻目に、彼女たちは自分たちの「強み」を見出せずにいる。少なくとも当人たちはそう感じている。
セルフドキュメンタリー番組でおそらく初めてハッキリと吐露された葛藤は「他のグループと比べられること」「心無い言葉を目にしてしまうこと」「自分たちがこのグループに馴染み、プラスになれていないこと」だった。
グループのイメージである「ハッピーオーラ」は彼女たちも積極的に口にして標榜しているが、それはグループ全体を総括するテーマでもあり、あくまで「日向坂」から流れ込むべきもので、彼女たちが自分たちの強みとするにはカテゴリーが大きすぎると感じることもあった。
そして何より、彼女たちにそれを届けるだけの十分な機会があったのかというと、必ずしもそうは言えないだろう。
グループ全体でライブ活動が減ったことも相まって、彼女たちがファンに存在をアピールできるのはブログやメッセージアプリ、そして「日向坂であいましょう」と「日向坂になりましょう」のみ。
自分たちの冠番組が与えられたことは非常に大事で平尾や山下のように「日向坂であいましょう」で着実にファンを獲得するメンバーがいる一方「日向坂になりましょう」では演技やボイストレーニングやチームワークなど、バラエティ企画を通してアイドルとして役立つスキルを学び意識する場にもなっている。
彼女たちは着実に成長している。それは間違いない。
しかし、同時にライブパフォーマンスを通してでなければ得られないものというのは存在する。自分達が「アイドルである」ということへの自信を得るのにライブでの成功体験より適したものはない。
そういった意味で、Happy Train Tour(以下HTT)を先輩と共に回った経験は得難いものになっただろうし、今回のツアーに最も期待していたのも「本隊である1〜3期生と4期生の本格的な合流の第一歩」だった。
そんな最中に発表された『新参者』。4期生だけで行うこの公演を大きなチャンスと捉えたであろうことは想像に難しくない。
そして藤嶌果歩は、18日の夜公演において、「最後のチャンス」という言葉でその思いを吐露した。
「最後のチャンス」この言葉を口にさせてしまったことは、無視できない責任だと思う。
エンターテイメントという不安定な世界に、中学生も含む年端もいかない少女たちが身を投じるこの業界において、メジャーアイドルを抱える事務所のもつ責任は大きい。
きっとこの世界に飛び込んだ時は不安と共に大きな期待を抱いていたはずだ。彼女たちをこの不安定な世界に送り出す家族の気持ちも含めて、それを受け止める器がアイドル事務所にはいつだって最大限求められる。
「新しい風を吹かせたい」という気持ちでいた彼女たちが『新参者』を最後のチャンスというまでに追い詰められてしまった要因のひとつは、グループ全体が抱えている危機感にもあっただろう。
クリエイティブの不発感に戸惑うファンの心と打ち出された「ライブ感」という具体性の見えないコンセプトのズレについに不満が噴き出したアルバムトレーラー。そして紅白出場が叶わなかったことで、勝負の年と明言されていたにも拘らず常に停滞感や迷走感に覆われていた23年にとどめが刺されてしまったかのような感覚。
期待を胸にオーディションを勝ちきり、日向坂46となった彼女たちにこの景色はいまどう見えているだろう。自分達のせいでとまで思ってしまっていないだろうか。この先このグループにいて自分達の将来はどうなっていくのか不安を抱えていないか。このグループの未来であるはずの彼女たちが、その未来に怯えてしまっているこの現状を健全だとはやはり思えない。
だから、藤嶌果歩が見たことない魔物の冒頭『答えが見つからない 出口はどっちだろう』という歌い出しの直後に叫んだ「見つけた!」という言葉に打ち震えた。そこに込められた勇気こそが、彼女たちを未来たらしめる力だと確信した。そこには確かな救いがあった。
※この記事は『新参者』日向坂46 11月18日2部公演を基準として執筆されたものであり、セットリストや演出にたいする直接的な言及が含まれます。
公演中のMCでも言及された通り、ブルーベリー&ラズベリー、キュン、ひらがなけやきと続く最初のセクションはけやき坂から日向坂、そして4期生までの『デビュー曲』となっており、グループの歴史を辿る意図と出発が冒頭から明確に打ち出される。
出発を経て待つのはドレミソラシド、ソンナコトナイヨ、君しか勝たんとグループの核となるヒットソングで、グループが勢いに乗って成熟していった時期を踏襲する。
このふたつのセクションで「外からみた日向坂の道筋」を、パフォーマンスする四期生と一体となって体感する。
このブロックの白眉はなんといっても石塚瑶季センターのソンナコトナイヨだ。
疾走感のあるメロディに勢いのある振り付け、ライブ映えする楽曲の先頭に立ちその小さな身体を跳ねるように使ってひたすら大きくパフォーマンスする石塚の姿には焦りや不安、停滞といった前述の不穏さすべてを吹き飛ばすパワーがあり、セルフドキュメンタリーで自分自身の価値についての悩みを吐露した彼女が「自らが持っている最大限の強み」をライブという表現の場で示している光景は感動的で、まさに小さな巨人と言いたくなるエネルギーが伝わってくる。
全力のパフォーマンスを「全力として」伝えることは実は難しい。いかに力を振り絞っていても身体がついてこず、あるいは適切に動いておらず観客の視認性に耐えられないこともある。
だが、先頭に立って天井に届くのかと思えるほどに肘を振り上げてチョキチョキダンスをする「全力の石塚」に、曲が進むにつれ他のメンバーも触発されて勢いをましていくこのソンナコトナイヨを見るためだけでもいいから4期生の『新参者』を見てほしいと、そう感じさせる説得力があった。
そしてそこから先はひらがな曲という「それ以前の歴史」の踏襲となっていて、「内側に秘められたグループのニュアンス」を知る行程を感じさせる。
それでも歩いてるでは岸のぶんを含めた12席の椅子が用意され、それぞれの生の歌声で楽曲を紡いでいく。決して安定しているとは言い難い歌声には、今まさに成長しながら戦っている挑戦者、当事者としての感動がある。
しかし同時にこの『新参者』はそれぞれの強みと課題両方に向き合える場でもあり、歌というのはひとつの大きな課題となって立ちはだかったようにも思う。
そんな中でも、宮地や小西、渡辺や正源司など鍛えれば確実に伸びると感じさせる声質と伸びをもつメンバーも確かにいて、すでに定評のある藤嶌と並び歌唱を支えるメンバーがでてくればこのチームは更に果てしない伸び代になるとそう確信させてくれた。
このパフォーマンスの中で藤嶌がハッキリとしたソロを担当しなかった(と記憶しているが、思い込みだったらご容赦)のも、ある種の親心を感じさせる。
乃木坂5期生の公演を生で見たメンバーもいて、それもまたいい刺激となったと期待したい。
小西センターによるイマニミテイロはHTT大阪公演2日目で披露した期待していない自分を彷彿とさせ、更にはおもてなし会でセンターを務めたこんなに好きになっちゃっていいの?に遡り、彼女の持つ存在感や佇まいを遺憾なく作用させたパフォーマンスとなっており、それは「ただそこにいるだけで目を引く」という秀逸なビジュアルがなせる技でもある。
髪型をセンターパート(であってる?)に固定し顔の造詣を全面に出すことで、元来アルカイック気味な表情がうまくプラスに働いていて、わかりやすくいうと際立って美しい。この公演で確実にファンを増やしただろうと言えるのは、石塚と小西ではないだろうか。
先立って行われた3グループキャプテンによる『新参者』合同生配信内のメンバー紹介で彼女の美貌に触れられた際に大いに賛同を得られていたことからも、ビジュアルが彼女の強烈な武器のひとつであることは間違いない。
その存在感と顔立ちはどちらかといえば櫻坂の文脈に触れているようにも感じるが、彼女にとって「アイドルというものに触れた」という原体験そのものが日向坂であるという、実はもっとも日向坂を目掛けてオーディションを受けたメンバーのひとりであり、その例に漏れず(?)静謐でありながら存在感のあるビジュアルとは裏腹にパーソナルがなかなかにぶっ飛んでいることは『ひなあい』や『ひななり』といった場でその片鱗を発揮させてきた。
それと同時にライブパフォーマンスではそのパーソナルを引き離すほどにビジュアルという武器が表現に昇華され発揮されるというのはある種理想的なことで、それが更に強度を増したのがこの日公演を通じて初めて披露されたときめき草でのセンター抜擢。
このときめき草が個人的にはこの公演で1、2を争うベストアクトで、センターの小西はこの公演のMVPだったと感じている。
この楽曲は日向坂46としてのデビュー曲をキュンと争い、トライアウトに負けた曲でもある。
つまり存在そのものがIFを抱え、その内臓には日向坂らしい可愛らしさや希望と一緒にひらがなの文脈というべき静かな優しさも同居している。
キュンが日向坂らしさの根っことなるほど癖になる明るさを称えグループの方向性を決めたことを考えれば、トライアウトの判断は正解の一つだっただろうと今になって思う反面、それによってこのときめき草のもつ美しいがどちらにも振り切らないある種の曖昧さが個人的にハッキリとした曲の評価として認識できずにいた。
だがこの日小西センターで披露されたときめき草は芽吹いてしまったときめきという草花を愛でつつもどこかに不安や悲しみも内在する微妙でじれた初々しい感情を表現していて、「この曲はこんなにいい曲だったのか」と認識を改めさせられた。
日向坂を目指しアイドルになった小西が、ひらがなの終わりと日向坂のはじまり、夜と朝の境界線にあるようなこの曲のニュアンスを拾い上げ、手掴みにして表現したというのは、けやき坂を擬似的に踏襲させて日向坂になるプロセスを踏ませ「日向坂の一員になる(追いつく)」という狙いを数段飛ばしてみせたと感じている。
このときめき草が降り入れを含めて3時間程度の準備しか許されなかったというのは驚くべき事実だったが、その緊張感も結果的にプラスに働いたのではと今ならそう思える。それほど素晴らしいパフォーマンスだった。
1日2部公演という楽ではないスケジュールの後半戦、メンバーそれぞれに疲労が溜まる中で、少ない動きでもそのスケールとしなやかさで表現たらしめる宮地の存在と、いまだに完全に回復はしていないだろう膝の怪我を抱えているにも関わらず完璧な表情管理でその辛さをおくびにもださない山下の存在はこのグループにとって幹のように大切なものだ。
宮地センターのひらがなで恋したいは問答無用で楽曲の良さがひかり、だからこそきらいの可愛らしさを持ちながらパフォーマンス映えする彼女にセンターを任せたのは適材だったと思う。
石塚が小さな巨人なら彼女はそのフレームの優秀さこそが何よりの武器で、だれよりも高く跳べで差し込まれたダンスパートでもこの2人の対比の見事さはライブの熱を視覚的にも感覚的にもあげる要素といっても大袈裟ではないだろう。
ハッピーオーラでセンターを務めた山下葉留花は、前述の通り膝に完治しきっていない怪我を抱え、テーピングをした状態でのパフォーマンスであったにも関わらずそのパーソナルに託された曲を見事に表現し切った。
その愉快極まるキャラクターが浸透するにつれ着実に人気を伸ばしていく彼女の真骨頂がパワフルかつ確実なダンスパフォーマンスにあることは、本人がそこに自負を感じているであろうことも含めてここからさらにアピールされていくべきだし、彼女のパーソナルイメージ寄り添ったハッピーオーラと同時にダウナーかつ攻撃的なトラックであるMy fansのセンターにも抜擢されていることを考えても、内部からの期待もうかがい知れる。
彼女の存在はバラエティとパフォーマンス両面において、間違いなく必要不可欠となっていくだろう。
ハッピーという観点でいえば、この公演を通して。竹内の笑顔に勝るものはなかった。
怪我の影響で忸怩たる思いもしただろうし、それによって遅れをとった焦りもあっただろう竹内が今こうして輪の中でハッピーオーラを醸し出しているのは彼女の強さや努力の表れでもあり、日向坂四期生がどんなグループかということの証でもあるように思う。
決してダンスが得意というようには見えないが、ひらがなけやきのセンターとして踊る彼女の姿には観客だけではなくメンバーの視線も向けられているように感じて、それは彼女の存在そのものが仲間達を繋ぎ止める大切な役割を担っているのだろうという思いを抱かせた。
この公演が彼女の最敬礼と投げキッスで幕を閉じたことで、最高の時間が終わってしまうという寂寥感を包み込んでくれた。
書きたいことが多すぎて時制がきいていないが、その懐かしくもポップなメロディで日向坂の多幸感を体現した曲のひとつである君しか勝たんのセンターに渡辺莉奈を抜擢したのは、個人的に意外な采配だった。
彼女の魅力のひとつは佇まいの神秘性にあると思っていて、それはドキュメンタリーや個人PV、またシーラカンスのMV中の横顔などで見られる「映像で撮られた時の顔」から抽出されるイメージでもある。
渡辺はとにかく横顔が美しい。そして同時に、ひとたび笑顔を見せると年相応の幼さが一気に顔を出すのも特徴だ。
君しか勝たんでは幼さを内在させながらもその場の完成度を落とすまいとする意識が見てとれ、それはどこか彼女が憧れる小坂菜緒を彷彿とさせた。
同じく小坂への憧れの念を隠さない宮地が自分の強みをふるう一方で、どこか渡辺は小坂という憧れに自分の表現を投影し近づこうとしているように感じる。
君しか勝たんは本来は加藤のセンター曲だが、渡辺がパフォーマンスすると小坂がオリジンであったかのように感じるのが不思議で、それは前述のような表現の重なりだけではなく、彼女が持ち合わせている神秘性すら小坂がたたえるそれに近い素養があるからなのかもしれない。
この印象を「マネ」であるとか言うつもりは毛頭なく、むしろこの重なりはポジティブな感情で、もし彼女が小坂のようなオールラウンドな表現能力を身につけたらとんでもないことだ。
この公演のもうひとつのキモは「小坂がこれまでどれほどの幅の表現をこなしてきたか」の疑似体験でもある。それは四期生がかわりばんこに努める表題やカップリング曲の中で彼女がセンターを務めた楽曲の量をみれば一目瞭然だろう。
渡辺がその幼く衒いのある笑顔と、息を呑むように神秘的な表情を使い分け、どちらの方面の楽曲でも存在感を放てるようになったら、彼女はネクスト小坂からファースト渡辺になる。
14歳の中学生にこんなことを言うとFBI案件に抵触しそうな気もするが、彼女がもっている独特の色香は日向坂にはなかったカラーで、それが全面に打ち出される楽曲が今後登場しても面白いなどと考えさせられた。幼さという神秘についぞ追随する超然的な雰囲気からくるのか、彼女の薄くしなやかなシルエットからくるのか、深入りしすぎるとこの文章が私の獄中手記に変わる可能性があるのでここまでにしておく。
ひとつ懸念があるとすれば、やはり年齢的な問題で、14歳の彼女はまだ心身ともに未成熟であるということ。
単純に体力的な限界があり、公演中も何度か心配になることがあった。怪我を抱えているメンバーも、休養している岸もそうだが、彼女がまだ成熟前の子供であることも現実的に受け止めケアをして行って欲しいと願う。
清水理央も膝に怪我を抱えていたという話を聞き、その時の公演からある程度時間は経っていたとはいえ内心では心配していたが、この公演の中で最も安定してエースの姿を見せていたのは紛れもなく彼女だった。
青春の馬はもう清水のストーリーになくてはならない楽曲になっている。
素直で真っ直ぐで、正攻法しか思いつかず、その難しさに苦悩し、また立ち上がる。そのトライ&エラーがが、清水理央がアイドルとして生きていく姿を鮮烈に描き出す。
その素直さからくる不器用な感情は「何かをなすこと」を求め、その挫折感や自分の現在地にまた逡巡を繰り返す。その様はどこか、本人が憧れを公言している金村美玖の姿を思い出させる。
だがきっと器用な人ならどこかで諦めがつく感情にいつまでも折り合いがつかないというそれそのものが推進剤となり得ることも、金村が示してくれた道でもある。折り合いがつかないからこそ進み続ける。手にできないものであっても、手を伸ばすしか方法を知らない。
その衝動は紛れもなく「真っ直ぐで王道のもの」だと思う。青春の馬という、大人には少し恥ずかしいくらい青臭い応援歌が彼女の能力を引き上げているのもまた、それがやっぱり彼女の資質だからに違いない。
青春というものは往々にして過ぎ去っていった時代の香りに都合のいい景色を描きたした幻想にすぎないが、正のエネルギーと葛藤を抱えながら「頑張って!」と声を振り絞る彼女の姿は、まさしく青春そのものだった。
それから、決して得意だったとは思わないライブ中での煽りにも着実な成長がみてとれた。そうやって彼女は進んだり、立ち止まったりしながら、また進むという選択を見せてくれるに違いない。
葛藤と発散のエネルギーもあれば、果てしないほどの楽しさというエネルギーもある。その象徴が、君しか勝たんのパフォーマンスでカメラに抜かれた「愛してることわかった」の瞬間の平岡海月による笑顔のバンザイだ。
果てしなく楽しそうで、嬉しそうで、とても最年長とは思えない笑顔と動作。いや、最年長だからいいのか。彼女のパフォーマンスをみて「楽しそう」という感想を抱くファンは少なくないと思うし、私もそのうちのひとりだ。
先輩でいうと山口陽世(名前で呼ばないと動かない人)のライブパフォーマンスにも近い感情を抱くが、平岡のそれには秀逸なドキュメンタリーやこれまでの振る舞いで蓄積した想いや決意が乗っかっていることを否定できない。
これが最後の運試し。幾度もオーディションを受け、その度に挫折を味わい、自信を失い、これが最後と決めた挑戦でやっと夢を掴んだ平岡。
アイドルになってから見る景色は前よりも鮮やかに見えたと、ブログに記していたのを覚えている。それはまるでベルリン・天使の詩やバッファロー'66で描かれたのような、心が色付くような体験で、きっと夢の手触りをしれた人にだけ訪れる幸福なのだろうと思う。
そんな彼女が夢の素晴らしさを知り、同時に現実も知り、楽しい思いも辛い思いもしたこの一年の間にいったい何を思ったのだろう。
ステージの上での彼女の振る舞いは、答えとまでは言わないが、少なくともひとつの道標にはなっていると思う。それほどまでに彼女のパフォーマンスは楽しそうで、嬉しそうで、彼女の中の理想のアイドル像と彼女そのものの持つアイドルとしての素養が重なって、それを見る我々の心を色付かせてしまう。
彼女が煽る誰よりも高く跳べは久美キャプテンのエネルギーともまた色合いが違く、煽られているというよりは誘われているような、エネルギッシュなのだけどそこには溌剌とした希望があり、跳びこんだ先がどんな景色であっても、きっとそれは誰かの夢に近付くことになるんだろうと思わせる。
夢は近づくと目標になるとかつてイチローが言った。アイドルという最大の夢を目標にし、その手にした彼女たちは、様々な媒体で自分達の現状に不安や焦りを口にしてきた。
その夢はいつか目標になるだろうか。私たちはその「約束の丘」にたどり着けるだろうか。
私が四期生を見るときに誰を中心にそえているかと問われたら、間違いなく正源司陽子だと答える。紛れもなく推しメンである。
正源司陽子は間違いなく、日向坂46表題センターを務めることになる逸材だ。そのことを下手に誤魔化したって不恰好になるだけで、あまり健康的とは思えない。ミート&グリート等の数字的な指標や注目度を見ても、グループ全体でトップに食い込む人気であることも紛れもない事実だ。
2023年のクリエイティブでも間違いなく上位にくるシーラカンスが初センターであったことも運命的で、丹生明里の休養で空席となったOne Choiceの代理センターを務めたのも、彼女に関しては経験として、そしてファンに心構えをしておいてくれという意思表示もあったのかもしれない。
決して心が強いわけではないが負けず嫌いで、メッセージアプリで心臓が出そうと零すほどの緊張しい。彼女にとってこの『新参者』は、誤魔化しようのない注目度とプレッシャーからくる葛藤や緊張がそのまま壁となって現れた場になったのかもしれない。
おもてなし会以来となるドレミソラシドのセンターを務め、指揮をとる振り付けで変顔をしてメンバーを笑わせることで自分の緊張をほぐすチョケたところも相変わらずで、経験者ではなく苦手意識すら滲ませていたダンスも見事に踊り切ったのは、彼女の元来の生真面目さからくる研鑽の賜物だろう。
正源司陽子のパフォーマンスは総じて水準の高いものだった。それは断言できる。
しかし、同時に目はずっと一方を向き、顔色は極度の緊張から強張ることを警戒してかえって動きがなく、曲を自分の表現によって引っ張っていたかというと、わからないというのが正直な感想だった。
これをもって彼女にまだ表現力がないというのもまた違う気がする。何故なら、ひな誕祭でのボルテージが上がりきった煽りで腕を幾度も振り上げ、精度を度外視するような情熱的なパフォーマンスを披露したあの姿が強烈に脳裏に残っているからだ。
もしかしたら、自分の想定を超えるほどの大きな箱でこそ、緊張のキャパシティすら突破した本当の全力を出せる状態にあるのかもしれない。好きなものにフォーカスしてゾーンに入ると誰も寄せ付けないほどに立ち止まることを忘れるほどの力を発揮できるのが正源司陽子の表現のキモだと思う。
表題の代理センターや単独での番組出演(NHK情報Ⅰ)など単純な経験値は同期より一歩先に歩みを進めているのも事実ながら、それでもやはり本番前にナーバスになって、袖では胸に手を当てて気を鎮めている。その緊張という波と向き合う姿もまた、正源司陽子の資質そのもの。
大いなる力には大いなる責任が伴う。望むと望まざるとにかかわらず才能というものは宿る。彼女がこのグループの先頭に立つとき、隣にはきっと小坂がいると思う。小坂こそ、あるいは正源司こそ、それぞれが持って生まれた才能を理解しあえる関係になるのかもしれない。
でもその前に、同期の中に彼女の隣に並び立ち、手を取り引っ張っていける才能があることもまた『新参者』を通してはっきりと示された。
藤嶌果歩は誰よりもアイドルだった。
何かをやり遂げる集中力と気力がないのがパーソナルな悩みであると口にする彼女がステージ上でみせるのは、スキルや動きの大きさだけでは到達できないような、紛れもない「アイドルの才能」だった。
今回披露されたどの曲であっても、藤嶌ならすべてセンターを務めて自分の世界に引っ張り込んでしまえると、本気でそう思える。これはある意味で陽子が抱えている課題に対する理想の姿であるとすら言える。
キュンという日向坂の魂とも言えるような曲も、彼女が先頭に立つと、しっかりと藤嶌果歩の表現となる。彼女の一挙手一投足を目で追いたくなる。
ファンが描く曲に対するイメージやアイドルそのものに対する投影を注ぎ込まれてなお自分の魅力を伝えるだけの器がある。
だから、藤嶌の口から放たれた「見つけた!」は、彼女たちにとって、私たちにとって、勇気の鐘の音だ。
約束の卵を超えた先、目標を見失ってしまったという焦燥感。そんな中で四期生は私たちの手をとって「約束の丘」を目指す。
「僕ならここにいるよ」
今の自分達の居場所と目指すべき景色、これはグループ全体が抱える大きな問題であり続けた。
そしてたった一年の間に自分達の居場所を見失い、どこに向かっているのか向かっていけばいいのかに悩む彼女たちもまたそれを体現してしまっていることは否定できない。
だから藤嶌の「見つけた!」は私たちの勇気の代弁だ。私たちが言って欲しかったことでさえある。慰められることも、同じ不安を共有することも救いには違いない。でももうひとつ、少なくとも私個人が求めていたことがある。
未来はいつだって味方だと信じられる、鼓舞が欲しかった。
だから私は紅白落選が決まったとき、率直な悔しさを隠さない金村の姿に勇気をもらったし、多くを語らず冷静にファイティングポーズをとる京子の頼もしさに感動した。
この『新参者』公演もまた、めんどくさいくせに単純なただのオタクである私に大きな勇気を与えてくれた。
「そう僕を信じてくれないか」
『新参者』という言葉を、今彼女たちはどう捉えているのだろう。"足りないものたち"と捉えるのか、はたまた"可能性の広がり"を感じ取れたか。
私は信じたいと思う。
共に手を取り、一体となって、この魔物をやっつけたら、きっと見える景色があるはずだから。
まだ言及していないメンバーがふたりいる。そう、平尾帆夏と岸帆夏だ。
私はまだロッククライミングという曲を上手に噛んで含めていないと思う。曲調としてはそこそこ、歌詞は想像通り、驚きがあったのはセンターが平尾帆夏だったこと。
個人的には次のセンターは宮地すみれで間違いないと思っていたので、ここでファンフェイヴァリットとしての地位を確立してきていた平尾にその役目を任せたのは、アルバムリードがキャプテンセンターであること含め、ある種「ファンの方向を向いている」ということだったのかもしれない。
しかし、アイドルという茫洋とした景色の中でたどり着いた場所が巨大な壁であり、全員の手を引いてそこを乗り越えていくのが平尾であるという解釈は、にくいくらいに腑に落ちる。平尾がいなかったら、このチームはどうなっていただろうと考えると、それこそ一体感という目標には辿り着けなかったかもしれないと思わせる。
どこかポップさを残しつつ歌詞の目的を忠実に動作にしている振り付けも平尾の明るく朗らかでありながら誠実さや実直さといった品が常に漂うキャラクターと整合性が高く、この曲を意義あるものにしているのは間違いなく平尾のもっている魅力や才能であると言い切れる。
彼女がいるチームなら、岸くん、いつ戻ってきたって大丈夫。
魔物を倒して壁を登り切って、でもクリア条件を満たすには、君の存在が必要なんです。