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200517 というかもはや

・日記を書くのをぱったりやめてしまったのは引っ越しが原因だった。今になって分かるのは、他人と生活を共にしていると自分自身の内面に思考を割くのが難しくなるということだ。自分にとって日記を書くことは自分の内側に深く踏み込む作業の最たるもので、昼は職場に行き、帰ってくると家族との食事という固定イベントがある生活では時間・体力的に厳しいものがある。

・最近の僕は外の世界にいることがかなり、多い。1日で意識があるうちの、通勤退勤の車内と、食事が終わって風呂にも入り終わったあと、自分の部屋に戻って寝るまでの数十分くらいしか自分の思考を解放する時間がない。大学にいた頃、社会人生活と制作活動の両立は難しい、的な話はよく話題に上がっていたけれど、本当にそうだ。何かを作るっていうのはほんとうに閉じた行為で、一般的な社会では閉じられた人間は受け入れられない。

・それに比べて今一緒に住んでいる母親は閉じたところが微塵もない、常に外の世界で生きていれる人間だ。さっき僕が起きたのを見つけるなりご飯を一緒に食べようと声をかけてきて、既にリビングからは牛乳を温める音がする。ありがたいな、と思うと同時に気後れする部分もある。


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・最近は生活に余裕が出て、工具の設置も終わったものだから徐々に制作意欲が湧きつつある。とりあえず今は手鏡を作ってみたりしているのだが、鏡を通販で頼んだところ発送まで結構時間がかかるらしく、「待ち」の時間ができてしまった。待ってる間に何か他のものを作りたいな、と思い構想するにあたって、何か面白いアイデアがないだろうかと一昨日、久しぶりに大学の卒展集を引っ張り出してきた。この頃の自分は現実と空想と理想の間で木っ端微塵に分裂していたな。とりあえず人に見せれる程度のものは作ったけれども、僕の卒業制作は表現でもなければ想いもない、欲求もなければ願いもない、真実が一つもないただのハリボテだった。このとき自分の内側で起きていたことが何だったのか、今でもうまく言葉にできていない。このよくわからない現象を自分自身で理解することが僕の当面の目的だ。

・もし今自分が卒業制作をすることになったら、もしかしたら日記を書くかもしれないな。何か虚構を形作るより、こうやって書くことが恐らくいちばん自分のほんとうだ。そして同時に僕が一番他人に見てもらいたいのはこうやって書いている自分のぐちゃぐちゃな部分だったりもする。面白いんじゃないか?普段はマトモな作品制作して、同時並行で日記に自分が知られたくないような、この日自慰しただとか自分に溺れたような言葉だとか、そんな汚くて本当は言いたく無いようなことばっか書く。そして卒展当日、マトモな作品の後ろの壁一面にびっしり日記張り出すっていう、自分の外身も中身も全部託してしまう作品。

・なんか演出が大変そうだし、メンヘラめいた主題のサブカル作品で使い古されてそうな手法でダサいかもな。

・というかもはや思考が露出狂と同じだな。パーソナリティの露出狂。


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・久々に火傷して水ぶくれができた。プチプチ位の感触。

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