その人としてその声であること

先日観たアンパンマンで「シチューおばさん」という人がいた。
みんなにシチューを配っていて、例によって横取りしにきたばいきんまんにも「ドキンちゃんと食べなさい」と言って分けてあげるくらい優しい方なんだが、何の気なしにみたエンディングで声優が野沢雅子さんだと知ってとてもびっくりした。
野沢さんの声はドラゴンボールやゲゲゲの鬼太郎などで十分知っているつもりだったのだが、お話を観ている最中はそんなこと思いもしなかったというか、完全に「シチューおばさん」としてみていたので、「そうかこんなに優しい声も…」と改めて凄さを感じていた。

最近観た「魔女の宅急便」でも同じようなことがあって、主人公のキキと絵描きのウルスラの声優が、どちらも高山みなみさんだということを初めて知って衝撃を受けた。
確かに意識して聴いてみると高山さんの声なのだが、どちらもちゃんと「その声」になっていて、同じ人が声を当てていることは微塵も感じさせないような演技だった。

この「キャラクターのその口から確かに意思を持ってこの声が出ている」という感覚。
声を当てる「声優」という仕事にとって、かなり最適解に近いというか、重要なことなのではないかと私は思った。

洋画の吹き替えを有名俳優が担当した時などにたまに起こる「あ、これ〇〇さんの声だ…」が先行してしまう現象。あれとは一線を画すというか、本当にその人として存在して生きて話しているんだという感覚を「声だけで」演じている凄さのようなものを、素人ながらに感じたのだ。

「いい声」「いい滑舌」ももちろん大事だけど、演じる上ではその一歩先まで行かなければならないのだと思う。ある種、裏方的存在ではあるものの、なくてはならない「声」の演技が作品に深みを与えるし、魅力を増してくれる。作品の真意を伝えてくれる。

どんな表現においても、作品に取り組む中で自分との境界を超えて一体となっていくことから生まれうる感動が、まだまだあるのかもしれない。


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