存在について

思い出と存在


「ここ、来たことがある」
「このアニメ、見たことがある」

詳細を覚えているわけではない。しかし、ふと、もう一度それと出会ったとき、懐かしさを感じることがある。
それは私の、いわば潜在意識の中に、ずっと「存在」していた。
もう会えない人、昔飼っていた犬。たとえ今ここに存在していなくても、思い出の中にある感覚(体験、手触りや匂いなど)が、再び存在を蘇らせることがある。
手に触れられるものだけが、存在している、とはいえないのかもしれない。


理解と存在


今見ている世界は、それぞれの個人が感じとって共有しているものであり、いわゆる「本当の世界」は誰にもわからない、という考え方がある。

たとえば今、この世界の人類全員が「せーの」で全ての記憶を失っても、存在は続く。世界中の誰もがこの世界のことをちゃんとわからなくなってしまったとしても、存在は続く。
そうでなくてもあと100年200年もすれば、今ここに生きている人のほとんどはいなくなる。我々全員の存在が消えても、我々はまだ誰かの意識の中で存在するのだろうか。
あるいは一個人としてでなく、もっと大きな文化的体系(価値観、考え方など)の中で私たちの存在は後世に影響を与え続けるかもしれない。

たとえば自分が胎児の頃の記憶はないけど、確かに自分はあの頃から存在していた。自分が自分であると理解する前から、私は確かに存在していた。
私の存在は、私の意識とも、他者からの認識とも別に、普遍的に確立している。そして他者の存在もまた、私の意識とは別に、確かにそこに存在する。

「知らない、わからない」けど「存在する」
理解と実存は別として、世界のことを「知らなければならない」のは、より理解して穏便に、柔軟に、他者との関係を構築するためであって、理解が必要ないと思うのは、他者との関係が重視されない世界でないと成り立たない。
相手のことを「理解」すること、その存在を「知る」こと。
私たちのように他者との関係の中で生きていくほかない生き物は、それらを度外視することはできない。
そしてその結果、たとえ「理解できなくても」その存在は確かに存在するのだ。


自由と存在


「そりゃもちろん自由は大事だけどさ、その「自由」とやらのせいで、私の安全や身体の健康が、理不尽に脅かされるようなことがあってたまるか」

我々は否応なく他者との関わりの中で生きていくしかなく、時にそれは理不尽さもともなう。
本当は誰の自由も、誰の存在も、他の何者かが認める必要などなく、許されるべきものなのであろうけれども、実際はどうしても、その関係性の中で認可の是非が問われてしまう。

その自由が「許される自由」なのか「許されない自由」なのかを判断するのが、自己ではなく他者にゆだねられるというのは、どこか皮肉である。
自由とは一体なんなのだろうか。

存在するということ


本当は「存在」にうらづけなど必要ないのだけど、自分よりも外側からの指定されたラベル(人種・性別・職業など)によって、「存在」はより簡易的な側面を見せる。
分類上はラベルがあった方が理解しやすいし、複雑な問題もより捉えやすくはなるのだけれど、本当は「わかった」り、「認可」したりする必要などなく、存在は存在としてそれであり続けるものなのかもしれない。
たとえそれを感じるとれるものがいなくなってしまったとしても、自分たちの想像を超えて、確かになにかが「ある」という感覚は、これからも続くのではないだろうか。

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