VTuberと指標性1.5:作業仮説

▼残された論点
①指標性をどう捉えるか
②VTuberの一貫性とは何か:たとえば、意図や言動の一貫性、表現の頻度

▼「VTuberの面白さとは何か」にどう答えるか
①実践の最初の一歩を踏み出すことを助ける
②面白さがわかる補助線・新しい見方を教える


・「VTuberの面白さとは何か」という問いにも、存在論的な問いへ誘引する力がある。面白さを説明するために、メディアの独自性や、新しさといった概念を持ち出すことになる。
(メディアに独自な表現を使っているから良い、新しいから良い、といった評価法。)

・メディア独自性、新しさ、といった観点を説明するには、類似したメディアとの比較がよく為される。

・顔出ししていない配信者。これを仮面配信者と呼んでみる。
仮面配信者は、彼らの顔を映す代わりに、あるキャラクターの姿を映すことが多い。(映さないパターンもあるが、ここでは考えない。)
次のような形式的特徴を挙げることができる:
(A)静止画
(B)アニメーション
(C)アニメーション+モーションキャプチャ

・2018年の初頭までにおいて、VTuberと仮面配信者の違いは、(C)に見出だすことができた。
(当時は3Dのガワ(キャラクターの姿)が多かったこともあり、2Dと3Dの違いに着目する論法もあり得たが、にじさんじが登場し、動画よりも配信が主流になるにつれ、こうした対立関係は意義をなくした、と著者は推測する。)
(「仮面性」の議論に関しては、仮面配信者にも同様に行うことができる。)


・仮面配信者とVTuberの違いを、以下のようにまとめることができる:
(1)画面上に映すキャラクターのモーションキャプチャの有無
(2)自身をVTuberと名乗っている
(3)なんらかの演劇性がある

・しかしこうした違いはすでに乗り越えられている(規範的に言えば、堂々と違反されている)と言えるだろう。特に(2)(3)に関しては、すでに筆者は幾つか所見を述べている。
以下のことはまだ考えきれていないことである:
①(1)をどう考えるか。つまり指標性をどう捉えれば良いか
②(1)~(3)の一貫性と、ほかの表現方法との関係性

・②で考えているのは、次のような例である:
*お手洗いに立つVTuberが、画面のキャラクターを消しても、その人がVTuberでないと言える証拠にならないのはどうしてか。(瞬間的な違反)
*実写の姿をもつVTuberが、VTuberであり続けられるのはなぜか。(継続的な違反)
(理由1)意図や言動の一貫性
(理由2)表現の頻度


・しかしこういった存在論的な問いは、端的に言ってどうでもいい(ナンセンスである)、と言うことができる。
たとえば「VTuberの本質とは何か?」「VTuberとは何か?」「VTuberの面白さとは何か?」といった問いは、パズルとしての面白さはあるものの、実践的にはそれほどの益をもたらさない、といった批判(難癖)。
では、どのようにして上記の問いに答えられるだろうか。

・誰かに何かの面白さを伝えようとするとき、実際にやることを勧めるだろう。VTuberなら、実際に動画や配信をみることを勧めるだろう。
そして、どういう視点からみたら面白いのかを教えるだろう。面白さにとって重要なのは、このような補助線の引き方を教えることではないか。
相手を説得しようとしても上手くいくはずがない。(ことの最初から、VTuberなど見たくもない、と言っている人物に無理やりVTuberをみせる理屈を考える、ということの意味のなさ。そもそも彼らは議論に応じないだろう。)
「誰かに何かの良さを伝える実践」は、次のように考えられるだろう:
①実践の最初の一歩を踏み出すことを助ける
②面白さがわかる補助線・新しい見方を教える
(*これらの実践は、すでに切り抜き動画(クリップ)によって示されている。)

・納豆が嫌いな人物に納豆を食べてもらう実践を考えよ。
これは発酵食品ですと言い、発酵食品の良さを挙げていっても意味がない。
また、納豆のできるプロセスや材料を提示しても意味がない。
(*これらの実践は、ある少数者への働きかけとしては優秀である、と言いうる。)
おそらく食べ方を変えるべきなのだ。納豆を混ぜる回数を増やす、特殊な味付けをしてみる、など。

・とはいえ、こうした実践には限界がある。
月ノ美兎の納豆布教動画は、そもそも納豆の良さを示し説得する実践がナンセンスだから面白い、ということができる。



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