VTuberと指標性2:悪筆考、演技と嘘

・悪筆がキャラクターの一部として考えられていそうな例:ex.でびでびでびる、沙花叉クロヱ
*重要な特徴ではないが、トレードマークのようになっている
*でびるにとっては本質的かもしれない:ぬいぐるみのような身体で書かれる文字とは、確かにあのようなものだろう。沙花叉の殺し屋とも繋がりはするが、本質的とは言えない(教育を十分に受けなかった、などの過去を想像することはできる)


・「目を瞑って利き手と逆の手でサインを書けば、誰でもそうなる」という疑念(難癖)。つまり、彼女らの悪筆は演技であって本物ではないという疑念(本物にこそ価値があるという考え方①)

・難癖への難癖
①こういった書き方をすれば、誰でも字がぐちゃぐちゃになるが、同じ崩壊の仕方はしない。崩壊の仕方にも個性がでる(=これもまた本物なのである)。方法を同じにしても結果は異なるのだから、演技ではなく本物である
②この難癖は特殊な状況を仮定したものであって、二人もこの特殊な状況になれば違う文字を書くだろう

・難癖への難癖への難癖
問題なのは、彼女らが嘘をついているということだ。つまり、表向きには普通の状況で書かれた文字だ、と言っているが、本当は特殊な状況で書かれた文字である、ということが問題なのだ。(本物にこそ価値があるという考え方②)

・難癖への難癖への難癖への難癖
①君は「演技をしている」ことと「嘘をついている」ことを同一視してしまっているが、これらは異なることだろう。これらを本気で同一視すると、日常生活に困る筈だ
②その言わば「裏側」をどうやって知るというのか

・演技と嘘は、言動の置かれる文脈において決まるのであって、その言動だけで分類することなどできない。
彼女らがキャラクターの一部としての悪筆を演技しているのだ、ということはできる。それは嘘をついている訳ではない。
たとえば、あなたが教育を受けていない悪筆の殺し屋の役を演じることを考えよ。台本通りに演技をしようとするなら、字を下手に書くのではないか(たとえあなた自身が字がうまいとしても)。それをしないというのなら、演技が上手くいかないというだけのことだ。

・これらの悪筆が現れているのは、誰がみても演技の場面である。
そもそも我々はでびるや沙花叉と対面せず、スマートフォンやPCといった画面を介して喋っている。そして彼女らは特異な見た目をしている(ぬいぐるみやギャルゲの絵が動いている)。変な声をしているかもしれない。こうした形式的特徴だけでも、悪筆が日常的でない文脈に現れているのはよくわかる。
演劇における劇場や、映画における映画館を想起すると良い。こうした特異な空間が、目の前の現象に特殊な文脈を結び付ける。空間が「こうして見よ!」と、ある視点を指し示している。


・筆跡の一貫性とは、普通の状況から言えることだろう
特異な状況を幾らでも考えることはできるが、特異な状況でかかれた文字を誰かの筆跡なのだと言いにくい
*銃を頭に突き付けられ震えた手で文字を書く、スカイダイビングしながら契約書にサインする

・二人がペン字や習字を習ったら、この悪筆はなくなるだろう
*ペン字や習字を習ったら直ってしまう悪筆は、キャラクターといえるのか:永遠不変のキャラクターではない。変化するキャラクターなのである。
*逆に「本来の筆跡」のようなものが見えてくるのかもしれない。現在の悪筆に帯びる筆跡と、ペン字を習得したあとの筆跡を比較することは面白いかもしれない

・あまりの悪筆は「生々しさ」を失わせるように思える。
これは、あるフォントを再現するような文字が生々しくないのと類比的である。
どちらもおそらく、「人間性」を失っているように思えるからではないか。(素朴な生々しさの条件のひとつ)


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