断章_20220430


・「VTuberについての文章です」「VTuberについて研究してます」というフレーズだけで、アレルギー反応が出るようになってしまった感がある。文字列をみるだけでぐにゃっとなる。鬱スイッチが入る。普通に病気っぽいなこれ。

①自分の劣等感スイッチがバチッと入る。この人の文章は(自分が参入できない場所であるところの)社会に受け入れられ評価されるだろうな、等。
②どうせ文章を読んでも懐疑的になり、あら探しをし始めてしまうであろうことまで想像し、気が滅入る。創造性?寛容さ?のない自分への自己嫌悪。
*これで心理的マウントを取れないほど完璧なら、①に戻るという感じかも。そういう意味で、②は①の付属品と考えることもできる。自己嫌悪が消えるわけでもないが。

・自分が物書きに向いていない理由(というか、ものを書くに当たって克服しないといけなくなった課題)のひとつになっている。
不快を避けて生きたいな、となったときに真っ先に無くなったのがVについて書くことだった気がする。文章はもっぱら、外に公開するものではなく、自分の外部記憶のためのものになった。

・自分の苦手な文章を一切参照することなく、文章を書くのは不誠実じゃないか、などとよくわからないことを思う。

・気分が塞ぐこと(軽い鬱状態)を本質と思うことから逃げ、気分が塞ぐことを避けれるようになってきた。これらは単純に良いことと思う。良いことなのだが、気が向いたときにしか文章は書けない(まさにいま)。蓄積がない。
ただ、仮に上記のような症状が治ったとして、文章を書きまくってなんか色々載ったりして、だからなんだ?と思う自分もいる。結局自分には、崇高な目的がないんだな、と思う。

・このことは楠栞桜論(完結編)のモチベのひとつでもあり、結局自分が大きな目標がないなどということを楠栞桜に投影してただけなんじゃね?などとも感じている。そういう独特な焦りがあったのかもしれない。

・最も卑近な種類のゲームは、意外にも僕を満足させる側面があることを、最近再確認した。テストのような、単純に数字が出るもの、そして他人との比較が基本的にはないもの(たとえば、パズルゲームのスコアアタック)。文章もまた、そうしたゲームの一環として考えると楽になれるのかもしれない。

①自分なりの解釈の箱(カテゴリー)をつくり、そこに適当に突っ込んでおけば安心できるかもしれない。この人の文章はカテゴリーAにぶちこむ、といったふうに。
②単純な模倣の対象として読むのも安心できる気がする。どういう書き方、構成にすればこの人の文章を模倣できるだろうか、という視点。
それなりの準備が必要ではあるが、上記のような考えがあれば、劣等感スイッチは入りにくいのかも、等と思った。倫理的に良いかどうかはとりあえず置いておいて……。
あと「読了する必要はなく、適当に読み飛ばして必要なところだけ取っておこう」とかも良いかもしれん。
(追記)読み直し中に思ったが「暇潰し」「クイズ的な知識を蓄えている」などといった考えも安心感がある。酷いもんだ。

・合法的に劣等感スイッチが入らないで済む方法、もっと欲しい。できれば無限に欲しいな……。
ちょっと楽になった。

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