批評について(1):批評の分類、傾向性の発見、空白を読む、連想と想像、多解釈主義

★批評の分類(メタ批評):
①特徴と反応の記述(素朴な批評)
②傾向性の発見:ジャンル、テーマ、表現技法、キャラクター……etc(素朴だが高度な批評)
③文脈(視点)の発見・適用:アルゴリズム、文学理論、バルトの方法論?など
(*行為への注目:つくるor読む、*因果性or合理性への注目、といった観点もひとつの文脈に過ぎない。)
④どの文脈に応じた価値か(批評の目的、読み手の種類)
※結局は、③と④に尽きる。ただ、①②は作品内的・素朴(日常的)・基礎的なものとして特記されるべきかと思う。


(傾向性の発見)
・「あるテーマ(視点)を見いだす」という発見法?はどう分類できるか:アルゴリズムに近いが、同一視はできない
*ジャンル論も含む:繰り返されてきた表現を経験的に分類する
*ひとつひとつの表現をある傾向性のもとに収集し、それを一般的な言葉(や比喩)に置き換える(傾向性の発見)

(空白を読む)
・空白を読む、とは何か:反実仮想?
*作品外的な空白は無限に拡大しうる
*空白から想像する、というとき、読むというより「つくる」に入っているのでは:二次創作
*本物の空白というよりは、「空白」という名前の付いた表現技法の束のこと
*料理における「空白」が最も考えがたい:ex.ほかの料理を食べるまでの「あいだ」

(連想と想像)
・連想が沸いてくる、という体験
⇒複雑な反応の記述なのでは?
反応の記述は、それはそれで無数にあり得るし、複雑にもできる:ex.想像・連想

・別の視点からみれば、その空白に想像の余地などないかもしれない:非意図的な空白、慣習的な空白など


(多解釈主義)
・「解釈がたくさんできること」は良さの基準としては機能していない。なぜなら、文脈が無数にあると仮定すれば、それに応じた意味も無数に考えうるからである
*シェークスピアの文脈の多さと、ヒカキンの文脈の多さは、同じである。つまり、解釈の量において両者に違いはない
*むしろ、シェークスピアとヒカキンでは、背負っている文化的背景の質が大きく異なっている。また、普遍性という観点も重視されるべきだろう(それもまたひとつの文脈に過ぎないが)
*様々な人生の文脈で使いうる、という尺度。これは結局文化的な差異に落ち着くだろうが。ヒカキンを引用して人生を語ることは馬鹿げているように思える(ヒカマニしかやらない)


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