論理と人からの評価

 最近、論理というものにとらわれすぎる。理屈や論理というものは完全でないということは十分理解したはずなのに、それにとらわれすぎて、もはや本当に自分の書きたいことがかけなくなってしまった。自分の言いたいことが言えなくなってしまった。僕が今書いている、この文章も例外ではない。文章というものは、相手に伝えることを一つの目的としているのだから、相手が分かりやすいよう、論理的に記述されなければならない。それはそうなのだが、文章のそういった性質が、僕の本当に伝えたいこと、書きたいことの出力を阻害する。僕が思っているものや、伝えたいこと、書きたいことというのは一貫した論理を以てはおそらく語れない。というか、それほど大層なものではないのだが、僕の文章構成能力や、文才が十分にないせいで、出力するときに微妙に歪む。これは最近気づいたことだが、僕は論理的思考が苦手だ。どちらかというと直観型の人間なのだと思う。問題なのは、大学に入る前まで、僕は自分のことをどちらかというと論理型の人間だと勘違いしていたことなのである。であるから、一回生の頃は、何のためらいもなく、論理的でない自分の考えや思考をさも論理的であるかのように語っていた。しかし、前述した通り、僕の伝えたいことや言いたいことというのは論理的枠組みをもたず、人に伝わらないことが多かった。それに加え、僕の周りには、論理的思考、論理的な説明が上手な人がたくさんいた(その本人たちはそんなことはないというが)。そこで初めて、自分の思考様式や、自分の考えにはあまり論理性がないんだということに気づいた。おそらくこれが、一回生のころに比べて、僕が自分の考えを進んで語ることが少なくなってしまった原因であり、同時に僕自身の解決しなければならない課題なのである(もっともこれが十分な論理的説明になっているかは怪しいが)。
 これは本筋からそれる余談ではあるのだが、僕は上述したような、周りの強大な論理力に圧倒されて、それと比較して、僕はなんて論理力がないのだろうと自覚したときに、もはや自分の中にオリジナルな考えや思いなんてものはないのではないかと思ったことがある。有り体に言えば、自分はなんてつまらない人間なのだろうと自信を失ったわけである。失った自信は、論理というものは絶対的なものではないと認識を改めることによって一定取り戻したが、自分の中の独創性について、今もこの考えは完全に払拭されたわけではなくて、僕は自分のアイデンティティやオリジナリティを証明するために、必死で「ありもしない」自分自身を表現しようとしているのではないかと。要は空っぽの中身を必死で引き出そうとしているのではないかと考えることが度々ある。




 僕の書きたいものを書け。とりわけ思いが強いものを。とさっきとある先輩に言われた。自分のなかで伝えたいものはあるんだけど、それって伝わらないよなと思ってやめてしまう。体裁をあまりに気にしすぎているのだ。自分がこうしたら、こういう結果をもたらすだろうというメタ的な視点が強くなってきて、そして、たまに、そのメタ的な視点でばかりいて、冷めたつまんない人間に終わっちゃだめだと思って、情熱的に、一種情動的に反応を起こした後で、やっぱり、ひどい目を見たと感じて、さらに臆病になってしまう。僕はもはや縛られるものが多すぎて、自分というものを表現する余白が残されていないのではないかと思う。有り体な言葉で言うと、仮面がはがれなくなってしまったみたいな。求められているものが多くて、というか、それに従わなければならないという固定観念が強く、また、そうしたものを壊してまで新しいものを作り出そうとするリソースもキャパもたりないし、それをしたら結局自分が不利な立場になるというか、そうすることで自分自身にあまりメリットはないだろうなという、ずるい算段が僕の中で、自動で働いて、結果今のような僕が出来上がっている。自分語りを最近しなくなったのは、僕が別に大人になったからではなくて、自分語りをすることで。僕自身があまり得をしていないなと気づいたからだ。話題として搾取されているような気がしたからだ。こうやって書いてて、分かったことだけど、結果、僕は先日どこかで聞いた損得勘定くそ野郎だということになるのだろう。
 最近、褒めてもらえることが多い。「よく分からないけど君のそういうところいいよね」とか「そういうところが君のよさだよね」とか。素直に嬉しいのだが、同時に僕は、それがしんどくてたまらない。褒められている対象が、本当に僕の心の底から出ているものなのか分からないからだ。言われることが申し訳なくて、なんだか胸がざわざわする。分かりやすい例でいこう。「優しい」という言葉についてだ。僕は最近まで、実は、これを言われたことがほとんどなかった。むしろ、厳しいだとか、ずるくて自己中心的だと、言われていたことが多いような気がする。でも、京都に来てから、僕にはその理由が全くもって分からないのだが、なぜかこの言葉を発せられることが多くなった。はじめの方は、その耳障りの良いきれいな響きに心地よさを感じていたが、それを言われ続けるなかで、2つの疑問が生じてきた。ひとつは、優しいと周りから定義されることによって、そういった行動を一種強要され、搾取されているのではないかという疑問。ふたつめは、それは、果たして僕の本当の優しさから来ているものなのかという疑念である。いや、敢えて強い言葉で言おう。これは法外なのだ。それは2つの面において。一点目は、僕はそんなに優しくなくて、そうすることが楽で、得で、自己肯定感が上がるから、それを打算でやっているだけで、性根がやさしいわけではないという点において。二点目は、僕はそんな人間で、別にやさしいわけではないのに、そういわれることで、そうしなければならないような気がして、本来自分がやりたくないことまで、(自己責任ではあるが)強要されているという点において。言い換えれば、僕は「優しい」と周りから求められるキャラやレッテルを甘んじて受け入れ、それを言われることが気持ちいいから、ほんとうはそうかも分からないまま、それを演じ続けている。周りも、おそらく悪意もないし、僕のことを本当にそういう人間だと思い込んでいるから、僕の方からも、周りの方からもそれは改善されないという構造になっている。演じきれれば良いのだが、たまに疲れて、演じきれないときがあるということが問題だ。「こんなの俺のやりたいことじゃない」と思う場面がどうしてもある。そのとき、しんどくて、たまらなくなる。
 僕がたびたびする話に、「良い人」というのは「(都合の)良い人」の省略形なのだというものがある。とりわけ、「良い人」という表現をその対象である相手に直接伝えるとき、これは著しい。課題を見せてくれる人、バイトのシフトをかわってくれる人、やんなきゃいけない仕事を代わりにやってくれる人、こんな人を対象にして、その行動を理由にして、その人を「良い人」というのであれば、僕のこの考えは結構当てはまるのではないかと思う。「〇〇くん(〇〇ちゃん)て良い人だよね」と直接伝える背景には、「あなたは良い人だから、私にも(都合)良くしてね」という一種の牽制、強要のようなものが感じられてならない。これは相手の善意を利用した搾取なのではないかと考える。だから、僕は、「君って良い人だよね」とは、絶対に直接言わず、「〇〇、お前はいいぞ」と感性的に言うか、直接的に、「君のここが良い」と、良さの対象を明示するようにしている。こんなふうに考える、僕の性根はねじまがりすぎているのだろうか。

 前半、後半ともとても前向きな文章にはならなかったし、これを公開するのはなかなか億劫だが、それでも公開しようと思う。そこから僕の一歩が始まるような気がするから。先輩の「自分の書きたいものを書け」、「僕の脚色された自分語りではなく、等身大の本音を書け、吐け」という熱い言葉には応えられたのではないかなと思う。この言葉を僕にくれた先輩(覚えているかな?)とこの機会を与えてくれたSKさん、ありがとうございました。

 それでは皆さん良いクリスマスと良いお年を!

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