生まれ変わりを信じる

日本に住んでいるとかなりのパーセンテージで
宗教家に会う事はないだろう。
ごくたまに家のプッシュフォンを鳴らし
『あなたは神を信じますか?』なんてフレーズじゃないが
エホバの証人、創価学会、キリスト教の人たちの勧誘が
来たりするが、『あぁ必要ないです!』とドアを閉める。

『気』というものに興味があり、
見えないものが見えはしないが、興味があった学生時代
姉の影響もあり、だれに何かを言われたわけじゃないが
人間の隠れた力というものに魅力を感じていた。
それは『思い』であったり、『祈り』の力で有ったり、
『欲』『集中力』なんて言葉に置き換えられたりする。
『波動』というものに関する本も読んだことがある。

自分に欠陥が多い事から、『なんであの人はあんな人前で
表現できるのだろうか?』と純粋に感じた事が多々ある。
要は自分は自己表現が不得意で、人見知りをして、
人づきあいが下手で、人前が不得意な人間だった。
何も思考が深堀できない学生時代。
殆どの物が目の前に与えられ、自分から欲することなく
なんとなくテレビを見ながら生きてきた。
それはそれほど生きる事に対して欲がなく、
何のために生きているのかも考える事すらなかった。

ちっちゃい自分。
葛藤を避け続けたが故に起こる自分に対しての
情けなさの衝動。どこに怒りをぶつけていいのかもわからない。
何をやっても中途半端。
何をやっても全くできない自分もいない。
やれば半分ぐらいはなんとなくできてしまう。
ぼろくそに言われることもない反面
べた褒めされる人生でもない。
恋する思いも中途半端なラブレターを送る事で
自分の気持ちを解消してしまったティーン。

本当の自分とは?
中途半端な自分に嫌気がさしてくる。
何もない日々、苛立ちの思いは重なり続け
人種のるつぼに自分が飛び込むことで
欠点だらけの自分、ちっちゃな自分を
どうやって成長させるか?
フラストレーションを新しいものを見続ける事で
解消していく。

気が付くと、自分の視界が広がっているかのように
感じる世界にいる。
肌の色の違い、背丈の違い、思考の違い、習慣の違い、
言語の違い、文化の違い、
人にはギャップがそれぞれある事を肌で感じる。
なんでこのギャップがあるんだろうか?
表面的には理解できる。

ある日曜日、ホストファミリーに連れられてカソリック教会で
ある背丈の近い肌の黒い人が、ハンドシェイクを求めてくる。
自分の手を握ったまま『あなたは牧師の言っている事が
分かりますか?』
アメリカに来てまだ間もない自分には宗教なんて身近にないもの
まして英語もわからないから、
『NO』と返答。
片手で握った自分の手にもう一つの手を添えて、
『いいんだよ。わからなくても。JUST FAITH』という。
FAITH?それさえわからない。
ジョージマイケルの歌にあったな。
信仰であるが、その時のニュアンスは『信じなさい。』と
言われていたと感じる。

何年かアメリカにいたが、カトリックの人々は皆いい人に会った。
しかし、自分から進んで教会に行きたいとは思わなかった。
自分の『現実』と『非現実的な出来事』の中にはジーザスや
彼らの信じる神という存在は身近なものにはならなかった。
しかし、ある本に出合う。
あるクリスチャンの書いた『神との対話』というものだ。
この著者は神という存在から自動書記によって
世の中の道理を知るのである。
宗教家のいう事はうのみにできないが、
人間にはあるところに脳がリンクする事が能力としてある事、
これは有名な発明家、作曲作詞家、日本の『虫の知らせ』、
シンクロ、などなど共通する事がわかる。

この世の中に存在するものは全て、違う世界で存在していて
人の思考方法の一つでその世界にリンクし、情報を入手し
発明し、現実化する事もできる。という内容の物を読んだことがある。
これはどういう事を物語っているのかというと、
この現実と思われる世界は、『思考の訓練場所』ではないか?
という事である。
何十億人という人間がこの世界に出入りしていて、
全く同じ人はいない。
思考も似ているようで全く一緒に人などいない。
なぜだろうか?

『人は皆生まれたときは同じ。平等にこの世に生まれてくる。』
と、ある人は言う。
本当だろうか?
学生の頃は生まれたときは赤ちゃんだから一緒か。
程度の理解。
しかし、よく考えてみると
生まれたときには既に違う思考を持っている。
言語、文化、習慣による影響はないが
母親の母体にいた時に受けた感情による影響。
よく妊婦に語り掛けるシーンがある。
そこで、『あぁ蹴った!』と母親が喜ぶ。
これは反応しているのは研究によってはっきりしている。
感情があるから反応している。
見えない絆で既に結ばれている。

世の中の産婦人科による報告で
『生まれた赤ちゃんが前世の記憶を持っている。』
と聞いたことがないだろうか?
もしくは母親が子供の言っている事がおかしいと
調べてみると何世紀も前に存在していた人々の
情報であったという内容の事例がいくつも出てきている。

右脳開発法の第一人者である七田眞先生は
子どもの脳は、生まれたときは右脳が活発化していて
だいたい3歳で左脳世界の影響を受け始めて
右脳重きだった脳の活用が左脳重きに変わってくるという。
だいたいこの位の年で前世の情報を持っている子供たちは
その情報を忘れていくとも言われている。
左脳世界でバッチリ生きている私にはこのような事が無かったが、
『人間みな平等』と考えたときに

ある子供は不幸な家庭の下で生まれ、
ある子供は欲しいものが全て与えられる環境下で生まれ、
ある子供は五感が正常に働かない肉体を持って生まれ、
ある子供は病気を持って生まれ、
ある子供は生まれてからの寿命がほんの僅か。
これらも平等と言われるのであろうか?
という疑問がある。

『平等』をどうとらえるか?
人には『魂』というものがある。
それは肉体にも環境にも影響されない
見えない世界の物であるが、人々は人には魂があると
信じている。それは正しくないか?
という事は見えない世界が存在すると信じている事と
同じなのではないか?

私はスピリット、スピリチュアルな思考を信じる。
それは誰を崇拝するものでもなく、自分には魂がある。
その成長が人生を生きる、この世で学ぶ、死を知る。
という事ではないだろうか?
肉体は有限であり、死を経験する。
しかし、魂は見えないものであるが故、死でなくなる
わけでもないと感じる。
それは生まれて間もない赤ちゃんが持っているキャラクターから
分かるものではないだろうか?
親譲りのDNAによるものですべては語れない。

DNAのかけ合わせが億単位であったとしても、
世の中には天才が生まれてきたり、
見えない世界が見えたりする子が生まれてきたり、
前世を語る子供が生まれて来たり、
子どものような振る舞いをしない子供が生まれて来たり、
現代の科学では全く証明できない領域であるはず。

世の中を現実化させているのは要素は人間の個々が持つ
思考(欲)によるものであると考え始めたのは、
多人種が住む海外で色んな思考の違う人々と接してからだ。
アメリカのアクション映画に影響を受け、
全ての規模が大きいアメリカに思いを馳せて
アメリカ人のように話したいと思い
渡米したら違いが大きすぎてギャップを埋めるには
自分を、日本で経験してきたすべてを否定しなければいけない。
そんな事は自分を否定する事だからできやしない。
しかし、違う視点から相手を理解する事で
ギャップは埋まっていくものだと知ったとき
外見、思考等の違いは埋めていくものではないか?と
理解したのである。

物事の違いを試行せず、拒否してしまう事は簡単だが
それ以上の知識や経験にはならない。
一度試してみて判断するという大切さが
『違い』ギャップの重要さなのではないか?
影響されやすいもの問題だが、自分が自国で受けた経験や知識を
ベースにして、自分の魂を成長させるために違いを知る。
それが人生のだいご味であり、目的なのかもしれない。

しかし、それをするためには一回の人生では少なすぎる。
自分の人生は生まれたときから環境や受け継いだもので
(それ以前の経験も?)フィルターが強すぎるからだ。
そのフィルターという制限はある意味必要で、
ある一定の物事を学ぶために設けたフィルターであるから。
だから、私は『私がこれができるのだから、あなたにもできる。』
という助言が嫌いなのである。
あてはまらないと感じている。

親であろうが、教師であろうが、先輩であろうが、友人であろうが
情報共有は出来たとしても、その人が前世から経験して魂が学んだ事は
他の人と違い、その為視点も違い、受け取り方も違うが故
すんなりその人には入ってこない事が多い。
だから、同じことを言っているにも関わらず、聞き入れない人がいて
しかし『好きな人』からの助言はしっくりくるという事が起きる。
その人が持っているエネルギーは受け取る人のエネルギー体と
経験数や『世界』が同じであるため、同じ言語を話していたとしても
違うように聞こえるのである。

この世に存在するものは全て『エネルギーと情報』であるが故
起きる現象なのかもしれない。
同じ言葉なのに放つ人とのエネルギーも影響する。
でも影響を与えられるAという人の言葉は
Bという人には響かない。
これは世界が違う。

世界というのは生きてきた経験してきた魂が
重ねてきた知識や経験が違うため、
持っているエネルギーが違うという事。
共鳴するかしないかはその現象である。
音で言えばオクターブの違うドレミファソラシド
ドという世界にいる人はオクターブ(魂の学びの違い)があるけれども
共鳴する。

話がだいぶ逸れたが、
過去にクリスチャンやカトリックの人たちと
意見の相違があった。
神やジーザスがこの世の創造の主だったとするならば
私個人的な意見としては自分の作ったものに関して
目的があって作ったのであるから、それに対して
良い悪いの感情は持たないはずである。
また、宇宙は地球だけではない。
星の数ほど存在する惑星のに地球だけに生命体が
存在するほうがおかしい。
事実NASAでは宇宙人とのコンタクトを行っている。
日本土器でもそうだが、各地で存在する壁画に記されている
宇宙人について、聖書が何も語っていないのはおかしいのでは
ないだろうか?
あれは人間の肉体を通して神が書かせたものだと聞いている。

でしかも神は想像主でありながら、
人間のような感情を持ち、人間をコントロールするかのストーリーが
かかれているということもおかしい。
『神を信じれば救われる。』という一般的にいわれている文言も
おかしい。先ずそこから普通の人間であれば変だと感じるだろう。
じゃぁ信じなけば救われない人間を作った神は
神を信じるようになぜ作らなかったのか?
人間には自由意思を与えられた。
というかもしれないが、じゃぁ裁く必要などないよね。という流れになる。
全知全能と言われる神。
全てを作った神。
自由意思があったとしても、結果や過程を知る事は容易なはず。
それに対して悲しいとか、罰を与えるとか、変だよね。

私の『全知全能の神』という意味は=『博愛』であり
『無』そこには愛があり、肉体を失ったときには
全てが楽になる。だから、神はなにもジャッジしなし、
悪がはびこる世界に関して手を下すことはない。
善悪だけでこの世が成り立っていない。という事が見えてないひとは
宗教を信じられるでしょう。
人生をどう捉えるかでその人の世界は作られますが、
私にはどうしても、悪がこの世を仕切っているとしか
世の中を見ると見えてこない。
世の中で起きている悲しい出来事はほぼこの世を支配している
グループによるものであるから。

そのグループは悪であり、『苦』を与える存在。
一般的なルールや権力を超えてしまっているので、
我々にはどうしようもないから
その中で、どうハッピーに生きるか。
これが我々ができる成功への一歩。

苦がないとハッピーは感じられないというロジック。
良い事だけだとそれが普通になってしまい、
自分を見失っていく。
その根本的な人間の欲の周期があるがため、
人間のバランスはアップダウンする。


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