「時間が解決する」ということばの抽象性

誰かに励まされる時、誰かを励ます時、一度は「時間が解決する」という言葉を耳にした事、使った事があると思います。

私は、この言葉を、救いでもあり、呪いでもあると思っていて。

落ち込んでいる私のことを想って、なんとかして励まそうとして友人達がその言葉をかけてくれていたことは重々理解しています。「なんとかすこしでも、君に前を向いて欲しい」という気持ちに何度も助けられました。

そして、なによりも、紛れもなく事実なんですよね。大抵の事は、時間が解決するんです。

あの時友人達がわたしに掛けてくれたこの言葉。解決した今、本当にそうなんだ、嘘じゃないんだ、と肌で感じます。あの時励ましてくれてありがとう。と、心から思います。

でもやっぱり、それは、「解決後のわたし」だからそう思える事であって。落ち込んで気分が落ちて、深海をずっとずっと漂っているような、海底の砂が重くて、立ち止まったまま動けないような、そんな状態の時は、到底そんなふうには思えなくて。

時間なんかが私のこの気持ちを解決してくれるわけがない。時間なんかに、私のこの苦しみをどうにかさせてたまるか。

って、そんな事ばかり考えてました。強気なんだか弱気なんだか、よう分からん。
わたしだけかもしれないんですけど。

「時間が解決する」という言葉に、解決するまで、
本当に翻弄されました。

ここで使われる"時間"って言葉、すごく抽象的で。
誰かは、1ヶ月かもしれないし、誰かは、半年かもしれないし、その他の誰かは、10年かもしれない。それ以上に、もっともっと長い年月をかけなければいけない人も居る。もしかすると、その人にとっては、どれだけ時間をかけても解決しない事柄かもしれない。

「時間が解決するよ」

…私は、2年と半年ぐらい、解決しませんでした。
今思えばあっという間の2年半だったけど。
でもそれは、今、思うから。なんですよね。

ほんとうに終わりがなかった。
何も解決していなかったあの頃は。

「いつまでたっても解決せえへんやん、うそつきうそつき。ウワーーーーーン!!!ずっと苦しいままかよ!!!」
そう思いっぱなしの2年半は、想像を絶するぐらい長い日々でした。

その状況を経験しているから、同じ立場に居る友人に、どうしても「時間が解決する」という言葉をかけることができないんです。いや、なるべく、いや、絶対に、かけたくない。

現在、時間が解決してくれた身としては(時間さん、マジでありがとう!)、
大切な人の苦しみをすこしでも緩和させたくて、
「いつかはきっと大丈夫になるよ」と。喉まで、いや前歯の裏ぐらいまで出そうになる時もあるのですが。ぐっと堪えて、(大丈夫になったあとに、言わせてね。)と心の中からテレパシーを送っています。多分届いてないですが、それでいいのです!!!!!

時間が解決する、というのは、
「時間をかけて、自分と向き合って、受け止めて、悲しみも苦しみも全部抱きしめて、また前に進む準備をすこしづつ整えて、そして、解決する」を省略した言葉だと私は思っています。

自分の力で、"いつかはきっと大丈夫に"へ向かって歩いていく大切な過程だから、わたしからはなにも言及せずにただ、側にいたい。

解決した後に、ちゃんとおわった後に、
「時間が解決したね。いつかきっと大丈夫に、なったね」って、言いたい。

解決した後に、この言葉ははじめて、今後の人生の「おまもり」みたいな存在になるのかな?と思います。出来事もまるっとひっくるめて、ね。私はそうでした。

みんなに当てはまるかは、分からないんですけど。

今、苦しい人、辛い人は、あまりこの言葉に縛られずに。もし、誰かに言われてもっと苦しくなったら、その気持ちまで黙って飲み込まずに。「いやいや私は全然、解決しねえよ!これから先もしねえと思うよ!するわけねえよ!オラ!」って言っていいと思います。受け止めてくれます。きっとね。傷付けたくて、かけてる言葉じゃ絶対に無いから。

時間が解決する、なんて、無理に思わなくていいし、無理に唱えなくていい。言い聞かせなくていい。
苦しいときに、きちんと自分を労れるような自分で居ることが、なによりも大切です。

後ろ向きでも、進まなくてもいいから、自分に優しく居られたら、それだけで十分です。

どうか、立ち直れない自分を責めたりしないで。
優しく居てください。悲しむ事は悪い事じゃないです。いつまでもくよくよ、していいんです。それでいいんです!!!

これを読んでくれた誰かの肩の荷が、
ちょっとでも降りたらいいな。
ちょっとでも楽になったらいいな。

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