春のはなし

春が怖い。
全てに置いて行かれているような気分になる。
別に元から、何処にも、何にも、誰にも
付いて行ってる訳では無いんですけど。

普段、「周りと足並みを揃えて"せいかつ"ができている」と思い込み過ごすわたしのとんだ間違いを
生暖かい気温や、桜や、別れに、
強烈に訂正される。

春に思い出すむかしの話を、ひとつ綴ります。

中高一貫の私立高校に、高校から入学した。
高校から入学する人は少数で、クラスに数名ずつ。
半ば、転入生みたいな感じだったなぁ。想像していたよりもずっとずっと孤独だった。

小学校、中学校のとき、他校から転校してきた子に、もっともっと優しく接すれば良かったなぁと、意味も無い後悔をしてみたり。

入学早々、わたしは苦しかった。

みんなは、中学3年間を共に過ごし、
お互いの名前もあだ名も性格も、部活も、
あの子がなにを頑張っていて、
あの人はなにがすきなのか、も
ぜんぶぜんぶ知り尽くしている。

わたしは、クラスメイトの名前すら、
覚えられていないのに。

授業中に聞こえてくるたわいもない会話。
なにがなんだかわからなくて、すごく気が遠くなった。

移動教室の場所
校則違反だけど黙認されていることと、
絶対許されないこと、の曖昧な線引き
次の授業の先生が怖い人なのか、面白い人なのか

なにもわからない。でも、みんなは知ってる。
その状況がすごく怖かった。

今思えば、全部知り尽くしている、なんてことはきっとないし、もともと学校にいたみんなも、新しく入学してきたわたしも、それほどかわらない16歳だったと、思う。
ほんとうに、今思えば、なんですけど。

学校のみんなはすごく優しかった。
何もわからない外部生を、
気にかけてくれていたと思う。

それでも、わたしは此処に「どう」居ればいいのか?ほんとうに分からなくなる時がたまにあって

学校に行く平日の朝 玄関先で
学校の大きな靴箱の前で
足がすくんでしまうことがよく、あった。

自分の選んだ道が
全て正しくなかったような気分になってしまった。

自分以外の人がしていること、しようとしていることは、どれも、正しいように感じるのに。

あの春は、人生で一番、自分自身を責めて、傷付けて、それでも分からなくて。
「十代」を凝縮したような時期だった。


この春に、わたしは大学4回生になった。
あの高校1年生の春から、何度も季節が巡った。

磁石みたいに衝動的に引き寄せられた出会いや
明日のことすら考えられない程の苦しい別れ

誰かからの何でもない言葉が
何故か忘れられなくて
悩んで眠れずに、朝が来た日。

意図せず、深く傷付けてしまった人や、
疎遠になってしまった人

慰めたくて、そばに居たかったのに
方法が分からなくて
わたしから離れてしまった人

信じられないほど、大切だと思う人に出会って今も隣にいたり。

とんでもなく、「いろいろな事」があった。

そして、やっと。

今年、まともに桜を見ることができずに
春の空気を目一杯吸い込まずに
過ごした事のない、異質な「春」を
はじめて経験して

あの高校1年生のときの春は、
わたしが生きるべき春だったんだ、
と気づく事ができた。

必ず体験しなきゃいけなかった事象なのかは、
わからない。

あのときの荒々しい焦燥感や劣等感、寂しさ

感じなくても
ちゃんと大人になれていたのかもしれない。

でも、今のこの世の中で
この春を過ごすわたしには
絶対に必要だった。

いま、生きるために、
あのときも、生きていたんだな。

きっと今この瞬間も
「日々を無駄にして、意味のない時間。
わたしって。
何がしたいんだろう。
正解って何なんだろう。」
そう悩んでる人が 山ほどいると思います。
わたしも、例外ではなく、
そんな気持ちになる時間がある。

意味があるか、そんなことだれにも分からない
意味なんてべつに、なくたっていい。

でも、たしかに、生きるべき季節なんだと思う。

これから、生きてゆくなかでその都度感じる
「なにか」を心で受け取るときに、
それをひとつずつ、言葉にできるように。

知らない感情を知るために
必要な時間、なのではないかな、と、
最近は、そんな風に思っています。


内側も外側も、息苦しくなる毎日ですが

この日々をいつか
愛おしい時間だった、と思える日が来ることを願っています。どうか、ご自愛ください。

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