(仮)トレンディ電子文 第33回:トレンディ期のアン・ルイス
アン・ルイスが引退宣言を正式に行ったのは2013年なのでもう丸10年が経つのだった。最後のシングルは病床の桑名正博、愛息美勇士との変則ジョイント・シングルであり、00年代もセルフカヴァー+新曲の構成作などでほとんど活動休止していたという印象が強い。しかし、少なくとも(ライブ活動が無くなった)95年以降に出された3作(96年「LA ADELITA」から03年「Girls Night Out」まで)のオリジナル盤は、日本の商業作品という軛からどんどん自由になり、何となく予算の少ない作りにはなるにせよ、居住を移したロサンゼルスの乾いたモードがどこかしら響いてくるような佳作となっており、これらを聴いていると彼女を「歌謡ロックの人」一辺倒でイメージ付けすることがどうも憚られるのだった。そもそもがオールディーズ歌謡としては相当先駆けだっただろう(74年当時、このような3連歌謡って"一周"していたのだろうか?)「グッド・バイ・マイ・ラブ」でヒットをつかみ、かの「恋のブギウギ・トレイン」を収録した疑似吉田美奈子的名作「PINK PUSSY CAT」(79年)をものにしていたのだ。この方向性は彼女にとっては何というか、余裕で歌いこなせる「ナチュラル」ものだったのはその出来から想像に難くなく、心身不調による活動休止を余儀なくされていなければ、90年代後半以降はR&Bの時流と合流して「ディーヴァ」の感触を纏う歌手となっていたのではないか。五島良子作曲のスムースなメロウチューン「豹柄とPINK」(98年)などその片鱗が見える楽曲はあるのだが、仁王立ちキメた「堂々たるアップ」となるとGTSにフィーチャーされたチャカ・カーン的発想のハウス「Wonderland」くらいしか存在しないのが何とも惜しい…
とは言っても、やはり「歌謡ロック」を歌わせると抜群にうまいのがアン・ルイスである。トレンディ期の彼女はほぼこのモードの達成にキャリアが絞られていると言っていい。何しろ始まりは「六本木心中」なのだ。この曲はとんねるず出演の深夜ドラマ「トライアングル・ブルー」人気と相まってポピュラリティを獲得した(このブログに詳しいです。見たことがないのですがどこかで見られますか?)所謂「ロング・ヒット楽曲」だったわけだが、この曲に至るまでには「沢田研二~山口百恵」という、歌謡界にロック(のある種のエッセンス)を抽出することに成功したふたりの伴走者が存在し、ふたりおよびそのブレーンに楽曲提供を仰いだ二大ヒット(「女はそれを我慢できない」「ラ・セゾン」)がホップ・ステップとして既に存在していた。しかし「ラ・セゾン」は今聴くと驚くほど当時のニューロマと音が共振しており(アンのヴィジュアルもそうだが)、歌謡曲とは少し違って聴こえもする。同曲以降の数年は「洋楽的」なものとの折り合いを探ってもいた感じなのだが、やはり「六本木心中」以降の歩みは全く迷いなく、バタくささとは違う方向性を辿ったのだ。
「歌謡ロック」とは何だったのか。いま改めて聴き直すとやはり「レベッカ・BOOWY以降」とは論理の組み立て方が違うと思う。百恵が引退し沢田が事務所の独立で失速したトレンディ期にこの二人の衣鉢を継ぐということは、前者の「ロックから歌謡曲を抽出する」とは真逆で、やはり「歌謡曲をロックに仕立てる」ということなのだ。だから一見似た楽曲があっても(スタンス的には前者であろう)シャ乱QともB'zともSHOW-YAとも異なる。簡単に言ってこの時期のアン・ルイスは「ナベプロ」の人で、芸能界の人として迷いなく音楽活動ができていた。だからレベッカの土橋安騎夫がプロデュースを手掛けた92年作「K-ROCK」には、それらの交わらない一線の、ぎりぎりまでの邂逅という意味でもっと感動と共に受け入れなければならないと思う。シングル「夜に傷ついて」は平成カラオケモードとして「シングル・ベッド」などの仲間とも、カラオケ・パブしかない時代の、もっとやさぐれた「夜へ…」(山口百恵)などの末裔とも聴くことができる、捉え方で相貌を変える複眼的な大名曲ではないか。
と、ここで思い当たるのが、中森明菜との想像以上の近似性なのだった。「百恵・沢田の不在」へのトレンディ期的な回答、「芸能界」人としての存在故の再評価の(ある時期までの)難しさ。そして何よりR&B的な洋楽エッセンスとの、キャリア半ば以降の親和性。その名も「DIVA」という、安室奈美恵もかくやといったアルバムを09年に出している明菜の「洋楽上手」っぷりはもっと注目されるべきだが、歌謡性、R&B性を"等価で"歌いこなせる女性歌手は、二人のほかは倖田のくぅしか思いつかない。ゼロ年代以降の活動不調すらリンクしてしまっているアン・ルイスには、明菜と同等の再評価がなされるべきだろう。