長い友との始まりに、

 日本の長いキャリアのミュージシャンが40歳くらいに書いた歌詞を、自分も近い年齢になった故に深く感じ入ることが最近よくある。麻原彰晃の公判で弁護士が引用していた事ばかり思い出す中島みゆきの「誕生」(40歳)は、しかし普遍的な死生観というよりは「誰かを失うたびに誰かを守りたい私になる」生成変化の過程で、歌詞中には生き死にと恋とがちょうど中間という感じに(要するに、今の自分とほぼ同量)混ざり合っている。ASKAの「can do now」(38歳)という曲には「これで全てが時間通りに終わっていくなら/いつまでも孤独を味わうことになる」という謎めいたフレーズがあり、時間通りに進んだ「先」ではなく「(終わっていく)過程」に絶えず孤独の可能性がつきまとう(孤独に「なる」という状態でなく「味わうことになる」という都度の実感なのがかえって恐ろしい)というのはやはり折り返し地点ならではな決断のできなさや焦り、不自由さの反映という感じで、自分もつい仕事中など思い出す。すべてを捨てて生き直すような潔さは中年には遠いもので、昔あれほど人生の一曲のように感じていたユニコーンの「すばらしい日々」(28歳)は「若いつもりが年をとっ」ては全くおらず、今の自分からしてみるとその感傷は(ちょっとした別れに対し)ロマンティックすぎる。逆に泉谷しげるの「長い友との始まりに」(40歳)という曲を最近繰り返し聴いてしまうのは、そのロマンティックな感傷と正反対な「断続的な関係への喝の入れ方」のようなものに一種の理想というか正確さを感じたからで、40代の友情(というか"関係")はワンアクション取りさえすれば「間に合う」と説明できそうなものも多いのではないだろうか。角が取れたり、人づてに再会したり…そしてもうひとつ大事なのは、ずっと会っている間柄というのも、継続の中でどこか「会い直している」部分があるということだ。力を注ぎたいこと、日々大事にしていること、10年も経てば各々意外と移ろうわけだが、(継続的に)長く続く関係は、移ろったその先でまた出会うを繰り返せる、または繰り返すためのワンアクションをお互いが自然とできているという事なのかもしれない。

 震災直後くらいからだから10年以上の付き合いになる友人の新著が出た。前作はパンデミックの3年間の日記をまとめたものだったが今回はより骨太になった(という言い方を好まないかも知れないがそう思ったのだ)エッセイ集。書評のようなものを書いてしまうことは慎みたいが、この本の中には光栄にも自分(若山)が登場する一章があり、急遽来日したあるアーティストの短編映像作品を一緒に見に行った日のことが書かれている(その日は自分にとってもたいへん記憶に残る一日だったので嬉しかった)。もう一年近く前なのですべてを思い出すことはできないものの、花と水とが強い印象を残す2本の映像作品には日本でシスゲイとして生きる自分には思いもよらない景色の意味と、本でしか知らない出来事とが切実に、しかし決して閉塞的にはならないタッチで刻まれていて、上映後のティーチインでその花の意味などについて拙い英語と身振り手振りでアーティストに質問をし、感想を伝え、ハグ(だったか握手だったか)をしたのだった。すごく確かな「その人」性のようなもの、が肌を通じて伝わり、帰り道246の夜空の広さに「世界はつながっている」というような妙な楽天性が胸に去来したあの日。今振り返るととにかく自分にとっては「アーティストの人格に触れた一日」ということがまず思い起こされるのだったが、この新著の一章の中では当然それだけではなく、自分がほとんど忘れていたり気付いていなかったりする微細さ、空気、振動がいくつも記されており、(全く忘れていたのだが)その上映会場で自分は「藍色のボールペン」を彼に貸したのだ。それは仕事が移動中でも降りかかるようになり、カバンに2本必ずさしておくようにしたペンのうちの1本(上映会の参加も当然仕事上がりだった)で、この半年後自分は仕事で致命的な失敗を犯し、クライアントからの厳しい約束事や、思い起こすのも辛い「失敗の時系列での振り返り」を、このペンを使い歯を食いしばってノートにメモしていくことになる。特に色合いで選んだわけでもないのでそもそも「藍色である」ということすらほとんど気にかけなかったこのペンが、いつ読み返しても自省しか促さない仕事用ノートでしか書かれなかったこのペンが、しかしエッセイでは「藍色のインクで綴られたルーズリーフを読み返せば、あの夜の空気がちゃんとよみがえってくる」と全く別の相貌を持っているのだった。

 追い詰められたり余裕がなかったりする時自分はつい今生きる時間を「一回性」として直線のように捉えてしまう。覆水盆に返らず、今は今しか無く、事実はひとつなのだと。しかし、こうして自分の隣にいた誰かにより出来事がメモされ、考え、まとめられ…つまり「言葉になる」ことによって、その"自分一辺倒"の直線が曲がり、傾き、散らばり…出来事や事物の様々な側面、経験の中に未知の別の経験が含まれ、並走していることなどを改めて思い起こさせてくれる。もっと言えばそれにより人生の取返しの"つかなくなさ"が心に戻ってくるようにも感じられ、要するにこの一編を読み、登場人物の一人である自分ははっきりと肩の荷が軽くなった。例の仕事上の致命的な失敗はやり直しがきかない、このまま行くしかない、という所に追いつめられる類のものだったが、しかしその実、その取引相手とは今日時点既に別の案件での仕事が始まっている(キャピタリズムの歯車は自分ひとり何か抱え込んだところで止まるものでもない…)。始まりをまた繰り返すこと。中年に兆すその駆動に、これまでの、どれだけの人を巻き込むことができるか。長い友との始まりに、と「ある一日の出来事」を思い出しながら記せる事が今はただ嬉しい。


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