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石川県にニンジャはいたのか?

 インタビュー・ウィズ・ニンジャで私の質問が採用された。

 改めて読むとかなりわかりづらい文章だ。質問の意図をしっかりと書こう

石川県(加賀)では一向宗が支配者を倒し、農民が自治した。
当時の支配者はニンジャである可能性が高い。
ニンジャを農民が倒したとなると農民側にニンジャ封じの手段を持っていたのではないか?
おそらく農民側はニンジャ封じの手段を持っていた。だから100年間どのニンジャの戦国大名も石川県を支配できなかった。
だがニンジャの力に頼らない織田信長のテッポウに敗れた。
以上のことから石川県にはニンジャ封じの手段が存在した可能性が高

という話である。回答は農民側にもニンジャがいたのでは?ということだが、果たしてそうだったのかそうでないのか判然としない。だから私は調査に出かけることにした。

 鳥越一向一揆歴史館、一向一揆の最後の砦となった鳥越城から発掘されたものや一向一揆の歴史についての展示がある歴史館。一向一揆について知り、ニンジャを影を追うならココに行かない理由がない。私は早速ここへ向かうことにした。

 私の住んでる所から歴史館は遠く途中休憩を入れながら向かう。これは途中で寄ったスーパーの駐車場でとった写真だ。2月中旬、平地ではすっかり消えた雪が未だに多く残り、山という環境が別世界であることを物語っている。
 こんなに雪が残り、視界を遮る山があるのならニンジャがいたところで気付くまい、とふと思う。そうニンジャがいても誰も気づかない。ニンジャ真実に触れようとする私が突然いなくなっても誰も気づけない。
 背筋に冷たいものを当てられたような悪寒が走った。だがかつてニンジャがいたとしても今いるかどうかはわからないのだ、そう考えて背筋の寒さを振り払うことに努めた。

 スーパーからしばらく車を走らせ、昭和の臭いが残る町中を走り、ついに一向一揆の里に辿り着く。一揆とは時の権力者に逆らったものである。もしかすると未だに闘争をやめないかつての戦士の子孫がいるかもしれない。
 私は目を付けられないように慎重にあたりを見回した。

 看板、そして

 地元のもの販売所兼食事処、地元で採れた野菜や自然を写した写真集などが置いてあった。とくに違和感のあるものはなく、スリケンがあったり、ニンジャ避けのお守りがあったりはしなかった。そして未だに闘争を続ける戦士もいなかった。
 思わず何かを勘繰ってしまいそうなほど違和感がない。まるで真実を隠しているかのように。私は追加の調査が必要と思い、食事処へと向かう。

 白山名物、鳥越そばを使った山菜そばである。ダシの香りが鼻へすうっと抜け、食欲を刺激する。一口すすると、よく効いたうま味が口の中に広がり、自然と二口目に手が伸び、コリコリとした触感の山菜と一緒に咀嚼され、胃の中に消える。
 ニンジャはスシがスキ。山の中ではスシが満足に作れず、山の中で生活するのは難しいのではないか?そう思ったがこのソバを食べるとニンジャでもコレは満足したのではないか?そう思えてくる。
 一向一揆は反ニンジャ組織ではなく、ニンジャが率いた。その可能性に少し傾いた。

 私はついに歴史館へと足を踏み入れる。残念ながら内部の撮影は禁止されていた。ここからは私の見たものを語ろう。

 最初に20分ほどの一向一揆の歴史の動画をみることにした。
 動画では織田信長の軍勢により300人ほどが処刑され、その血で一帯の雪が真っ赤に染まったという話で幕を開ける。コワイ!
 その後は一向一揆の歴史に移る。この始まりは浄土真宗(通称一向宗)の蓮如という僧侶からはじまる。彼は教えをわかりやすくして信者を広く獲得した。だがこのやり方が他宗派から弾圧を受け、吉崎御坊(今の福井県、福井と石川の境ぐらいの場所?)に辿り着く。
 吉崎御坊で布教は成功し、一大勢力となる。その後富樫政親という加賀(石川県)の有力者と手を組み、戦争に協力する。だが富樫政親は蓮如の勢力の強さを恐れて一向宗の信者たちを迫害。しかし逆に信者たちに攻められて城を囲まれて自害することになった。そしてそこから「百姓の持ちたる国」となった。
 その後他の武将たち侵攻を跳ねのけながら発展する。だが織田信長の侵略を受けることになり潮目が変わる。
 織田信長の配下の武将、柴田勝家に数度敗北し、再起不能までに陥る。だがそれでも残った信者たちは鳥越城にこもり、戦い続け、そして冒頭の処刑へとつながる。100年続いた百姓の国が終わることとなった。

 以上がうろ覚えながらの動画の内容である。後でネット調べて記憶と内容に齟齬がないか調べたが蓮如が弾圧を受けた理由がちょいと怪しいがだいたいこんな流れである。
 動画を見終えた私は展示室へと移ることにした。

 展示室では鳥越城で発掘されたものや、当時の手紙など歴史の流れが見ることが出来る。一揆をおこした蓮如は好戦的な人物だとなんとなく思っていたのだが、一揆の際はやりすぎないようにみんなを抑えようと頑張っていたようだ。
 仮に一向一揆がニンジャが率いたものなら、トップである蓮如がニンジャである可能性が高い。そう思ったのだが弱腰の姿勢にニンジャとは思えない。やはり一向一揆は反ニンジャ勢力なのだろうか?

 展示品を見てると興味深い記述があった。当時の百姓たちだが命令系統のある組織だったようだ。普段は地域ごとに分かれていがみあってるものの、国が攻められれば軍のように動いたようだ。
 そしてもう一つ鳥越城では刀や鉄砲などの武器の生産がおこなわれた跡があるようだ。
 弱腰の蓮如が軍のような命令系統のある組織を作れるのか?また武器の生産を行えるのか?私はそうは思えない。彼の後ろに好戦的な人物がいたとしか思えない。そうニンジャのような……!

 私の推測は一つの結論に至った。だがこれを完全なものにするには更なる調査がいる。鳥越城跡にいき、ニンジャの存在を思わせるものがないか確かめに行く。そうするべきであろうが、私の足は震えていた。
 単純に雪がぽつぽつ降り始め寒いこともあった。だがなによりニンジャが石川県にいた可能性が高い。その事実が心底私の心を冷やし、一刻も早く家に帰りたいと心をせかせた。
 結局わたしはニンジャ真実に辿り着けず家路につくこととなった。

 家に着いた後とある疑問について考えていた。ニンジャがいるとしてそれは誰だったのか、と。コレについてはなんともいえない。ただ戦国大名がニンジャであるということを考えると、思いつくことがある。ニンジャとは歴史の影から世界を支配する存在である。
 正体を隠したとしても戦国大名として表舞台にあがるに抵抗感のもつニンジャがいたであろう。そういったニンジャが勢いのある宗教にとりつき、影から操る。古いニンジャらしいやり方だ。
 そう思うと敗北が決定的な状況になっても鳥越城にこもって戦う信者がいたことに説明が付く。ニンジャの暴虐にさらされたのだ。暴力に脅され最後まで戦い抜き、処刑される。なんと恐ろしいことか。だがニンジャならば平然とできるのだ。

 この文を読んでる人はニンジャがいたという確証は得られなかったのに何を書いてるのか?そうやって正気を訝しむであろう。実は石川県にニンジャいる可能性を示すものがもう一つあるのだ。


 妙立寺、通称忍者寺。そう呼ばれるお寺が現代にも残っている。かつては単に名前にニンジャとつけたただのどこでもあるお寺に過ぎない。そう思っていたのだが石川県にニンジャのいる可能性が高い、ならばここも名前以上のしんじつが隠されてるはずである。
 ニンジャの実在を確固たるものにするためにいつか調査に向かう必要がある。いつかに向けて準備しつつ今はこの文を閉じよう。

さぽーとすると映画館にいくかいすうが増えます