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長谷川愛・江永泉・青山新 座談会「未来の友達」

「わたしはイルカを産みたい(I WANNA DELIVER A DOLPHIN…)」などで人類と人類以外の生物種、生態系との関係について問いを投げかけているスペキュラティヴデザイナー・長谷川愛と、各媒体でクィアスタディーズを始めとする様々な理論やカルチャーについて論じつつ、「闇の自己啓発会」発起人として読書と雑談の新たな様相を提示し続ける江永泉。SF作家・青山新の司会のもと、「未来の友達」を巡る二人の対談を中心とした座談会をお送りする。本座談会は2022年6月3日、anon運営のDiscordサーバー「anon future communities」のボイスチャット上で実施・収録された。オルタナティヴでスペキュラティヴな活動を展開する二人(を中心とするn人)の対話がどこへ向かうのか、ぜひとも見届けていただきたい。(編・樋口恭介)

クィアスタディーズとスペキュラティヴデザイン、オルタナティヴのための理論と実践

青山:今日は「未来の友達」をテーマに、スピーカーの長谷川愛さんと江永泉さんと話しつつ考えを深めていきたいと思います。

 昨今、テクノロジーや社会通念の変化によって「自己」や「家族」といった概念が拡張されつつあります。例えば、性自認の問題は自己をいかに定義するかの問い直しであると同時に、同性婚の法制化を巡る議論に代表されるような、家族のかたちの問い直しでもあります。他にも、微生物を含む「超個体」として人間を捉え直す機運は高まりつつありますし、あるいはヒトゲノムの多くがウイルス由来のものである可能性などを指摘することもできるでしょう。ではひるがえって「友達」についてはどうでしょうか? 個体や血縁といった考え方をベースに発達してきた「自己」や「家族」の輪郭が揺らぎつつある今、「友達」というあやふやな概念について考えてみることで見えてくるものがあるかもしれません。ここにはさらに、テクノロジーによって友達のつくりかたはどう変わるのか? チューリングテストをパスするようなAIと生身の人間、どちらをわたしたちは友達に選ぶのか? 各種の動植物や無生物とのコミュニケーションが可能になった時、わたしたちはそれを友達と呼べるのか? といったさまざまな論点が加えられるかと思います。

 こうした「未来の友達」あるいは「友達の未来」について考えるにあたって今回は、スペキュラティヴデザイナーとして出産や家族に対する問題提起を含む作品を多く手がけられてきた長谷川さんと、「闇の自己啓発会」の発起人として知られ、クィアスタディーズをはじめとした思想・理論に明るい江永さんをお招きしてお話を伺っていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

江永:江永泉です。『闇の自己啓発』という本でクィア理論を取り上げていたので今日はお呼びいただいたのかなと思っています。よろしくお願いします。

「未来の友達」というテーマを聞いたとき、まず思ったのはイマジナリーフレンドのことでした。全く知らない人向けに言えば、語弊はありますが脳内友達です。子供の頃、自分に話しかけてくれる友達のぬいぐるみとかがいた人は、そこからぬいぐるみというブツを引き算して考えてみてください。そういう空想の友達です。フィクションだと遊戯王の「もうひとりのボク」とか、最近のボカロ曲なら、いよわ『パジャミィ』のMVなどが、そのわかりやすいイメージを提供していると思います。イマジナリーな友達を考えることは、個々の脳内の友達イメージを考えることにもつながります。

 これから人間以外が友達になりうるとしたら、もちろん、もうすでに友達になっている人も少なからずいると思いますが、それがもっと一般化していったとき、人々の脳内Xに何が代入可能になっていくのか(「脳内X」「代入可能」は文字起こしをしてくださった樋口さんの言葉。うまい表現を感謝です)。そこで何を参照してイマジナリーフレンドをつくっていくのか。そもそも"出会った"相手であり"つくった"キャラクターではないという人もいると思いますが。ともあれ、これは、友達像の最大公約数的なイメージが将来どうなっていくのかという話にも結びつくでしょう。

 別の脳内人間の例ですが、よく意思決定のたとえで、脳内で複数の人物が会議しているとか、天使と悪魔に囁きかけられるとかの図像があると思います。こういう、選択に悩む様子を示すイメージにもファッションや社会問題のように流行り廃りがあるわけですね。あるいは、人体に起きている事態は概ね同様のはずでも、物語の水準では狐憑きとかサトリから毒電波とか思考盗聴へとかの変遷があった、みたいな話。これも流行り廃りの例です。奇矯に映る例が多くなったかもしれませんが、こういう、ふだんづかいのイメージの分析をしていくのは有意義なことだと思います。カジュアルであれフィクションとともにヒトは生きてきたのだし、これからもそう生きていくでしょうから。

 また、もう一つの方向性として、友達という関係性はこれからどう機能するのか。これを検討するアプローチもあると思っています。友達という枠の中に、現在の友達とは違うもの、違うタイプの人どころか人でないタイプのものまで、いわば二重の意味でヒトデナシをも含めていくと、主体のあり方が変質し、関係性も変質するはずです。友達関係と呼ばれるものが、今後も同じ友達関係と呼ばれつつも、実態としてどう変わっていくのか、そんな友達たちとのコミュニケーションの中でわたしたち、すなわち、わたしにとってはわたしで、あなたにとってはあなたであるような、これの読者、強く言えばこの世界というゲームのただひとりのプレイヤー。それが、どう変わっていくのか。そういう未来を考える方向性です。

 どちらかといえば言語、物語とか理論に寄りがちの自分には現在、この二つの論点がありますが、実際にものをつくってきた長谷川さんは、異なる意見やスタンスをお持ちだと思います。長谷川さんとは今日初めてお話しするので楽しみです。

長谷川:長谷川愛です。よろしくお願いします。日本では現代美術家と名乗ることが多いのですが、もともとはイギリスで、スペキュラティヴデザインという問題提起を行うデザインのアプローチについて学んでいました。冒頭で青山さんにご紹介いただいたとおり、サメを産んだりイルカを産んだりする作品や、同性間で子供を産む技術ができたときに、いかに育て、そのときどのような問題が立ち上がってくるのか、といった作品をつくっています。

 先ほど江永さんがおっしゃったイマジナリーフレンドに関連して言うと、「(IM)POSSIBLE BABY (不)可能な子供:朝子とモリガの場合」という作品を作ったりしていました。これは、同性カップルの遺伝情報を分析し、それらの遺伝情報から、生まれることのなかった/生まれうる仮想の子どものイメージを生成し、仮想の子どもとの家族写真を制作するというものです。今後、これまでイマジナリーフレンドと呼ばれてきた存在は、テクノロジーによってイマジナリーなものではなくなっていくと思います。そうなってくるとイマジナリーフレンドはどう変わるのか、ということを考えることには興味がありますね。実在性を伴ってもイマジナリーフレンドへの執着は残るのか、あるいは、アバターとして実在するようになったイマジナリーフレンドをデータの箱庭の中で愛でる人間の姿を想像する、というのも、おもしろいなと思います。

 わたしは友達というのは、家族や恋人とは違う距離があると思っています。互いに期待をかけない関係、情はあっても踏み込みすぎない関係があると思います。いまはそういう風に、「こんなことしたら嫌われるだろうな」とか「キモいやつと思われたくない」といった心理的なストッパーが働いているのが普通の友達関係だと思いますが、そういうストッパーを解除してもいい世界を想像するのもおもしろいです。キモいことしてキモがられてもいい、みたいな。

江永:友達と家族や恋人の線引きは、よく議論になるところですよね。思い出したんですけどわたしが"家族"と通話してて丁寧語で話していたら傍の"友達"にびっくりされたことがあります。「はい。了解です。ありがとうございました。それじゃあ。はい。気をつけます」みたいな感じで電話切ってスマホをしまったら「いま、誰と電話してたの?」って訊かれて。家族、と答えたら、いや今のは家族の距離感じゃない話し方では、と。

 親密な間柄という意味では友達も恋人も家族も地続きだから、クィアの理論/研究は、友愛の話もしています。というかまずホモソーシャルがそうです。これは元は社会学で使われていた用語だったのを、イヴ・K・セジウィックという文学研究者が「ホモソーシャルな欲望」をキーワードにして論じたことで広まりました。「ホモソーシャルな欲望」の話が出てくるセジウィック『男同士の絆』は、クィア理論の嚆矢となった著作のひとつです。近代イギリスでの男同士の絆が、女同士の絆とは異なって、友情と性愛を峻別しがちなのはなぜだったのかと問題提起して文学や社会を論じるセジウィックのこの本によって、ホモソーシャルの語は広まってきたわけです。

 図式的に説明すれば、男同士の絆の強固さは、女性差別と同性愛恐怖に支えられていたという話です。……と書くと男同士の友情を貶めているようで、嫌な感じに響くかもしれませんが、巷間での男子校的ノリのイメージを考えてみましょう(実態ではなく、わるい紋切型の話です)。例えば、猥談でアイドルの話などを雑にやり取りしつつ、お互いに同性愛ではないと手癖のように確認を繰り返すみたいな集団像。これはセジウィックの見立てとかなり合致して映ります。あとは夏目漱石の『こころ』での私(先生)とKとお嬢さんの三角関係、これもセジウィック流のホモソーシャルな欲望の話と結びつけられたりします。しばしばBL的に解釈されるのも納得です。実はルネ・ジラールという思想家が(ピーター・ティールに影響を与えた人物としても知られる)欲望というものを三角関係で説明しているのですが、セジウィックのホモソーシャルというのもジラール的な三角関係の図式で頻繁に説明されます。

 補足ですが、鴎外の小説などに遡れば、日本の硬派な男子学生は同性愛嫌悪というよりか同性への肉体関係を築いてもいたようですし(そこでの肛門性交=鶏姦が病理化されて非難されていく流れもあります)、それだけでなく、明治期の文献などで見ていると、どうやら衆道のような従来体制の中での少年愛文化が、輸入物であるプラトニズムやロマン主義ないし耽美主義と部分的に混ざりもしていたようです。なお、秋田雨雀「同性の恋」という短編が発表されたのが1907=明治40年でした。田山花袋が「蒲団」を発表した年でもあります。この秋田は同年発表の短編「アイヌの煙」ほか、アイヌを描く作品も発表しており、部落差別を扱った島崎藤村「破戒」のような意味での、社会派な純文学を志向していた気配があります。

 少し民俗学的なというか過去の風俗世態めいたものの紹介に話をずらしてしまったので、戻します。ともあれ、ホモソーシャルな欲望というコンセプトが与えられることで、捉え方が変わるような振る舞いとか言い回しとかが諸々あります。物理的なコンディションが変わらなくとも、パースペクティヴが変わることで関係が変わるということはあると思います。ドゥルーズとガタリは飛行機のハイジャック宣言が同じ身体を乗客から人質というステータスに瞬時に変えてしまったりする、といった例を出しつつ言語による非物体的な変形というものがあると語っていましたが、そういう話でもあると思います(肩ひじ張らない友情は権力関係の証左に変わり、漱石はBLに変わる)。理論というのはそのように、言葉を使って関係を記述したり、あるいは変質させたりしています。

 長谷川さんは、理論による働きかけとは逆向きのこと、つまりテクノロジーを活かし、言語というよりは物質、精神というよりは身体に働きかけ、それによって何がどこまで変わるか、どういう変容が意識にもたらされ、どんな語や考えが練り上げられ、何ができるようになるのか。これを実験しているように映ります。もともとクィアという語は"風変わりな"というニュアンスでも使われていましたが、自分の側が読み書きや考えかたで物事がクィアになっていく側に寄っているとしたら、長谷川さんのような「現代美術家」は、現に物事を変えることで想像力をクィアにしていく側である、という風に整理できそうに思えます。

長谷川:たしかにおっしゃるとおり、わたしはプロトタイプ/モックアップとして「もしもAがA'あるいはBだったらどうか」という仮説を具現化して提示しています。

 一方で、わたしはクィアに興味はあるけれど、クィアという概念とその運用方法についてはうまく捉えきれていないところもあります。定義が柔らかく、輪郭があいまいで、そのために「クィアって一体何に対してどこまで使える概念なのかな」と思うことは多いです。

 雑駁な印象としては、これまで二極化していたジェンダーに対して、オルタナティヴなものがあるぞと提案している運動だとは思うのですが、昔京都のクィアイベントに行った際に「クィアなもの」として制服があげられているのを見て、それってどういうことなんだろう、クィアの理解って難しいんだなあって思ったりもしました。

江永:それでいうとアメリカ発のTV番組で「クィア・アイ」っていうのがあって。元々は2003年に始まっていて、最近でもネットフリックスなどでやっているんですけど。これが異性愛者男性をゲイのファッション・コーディネイターたちが大改造する、みたいなのが大枠だったんですよね。それで人気番組になった。日本だとピーコのファッションチェックとかが多少は近いでしょうか、そういうファッションとライフスタイルの話としても「クィア」の語があります。だからさっき長谷川さんがおっしゃったような「制服がクィア」みたいな話もポピュラーではあります。2010年代前半にクィア・ラップというムーブメントが注目されたりしていたんですけど、そこで紹介されていたミッキー・ブランコケイクス・ダ・キラLe1fなどの諸アーティストの発表していたMVを見ると、マドンナ「ヴォーグ」以来にリバイバルしたとされるヴォーギングの動きが取り入れられていたり、あるいはブランコの「Wavvy」とか耽美というかゴシック感があるし、ケイクス・ダ・キラの「Goodie Goodies」とかヴェイパーウェイヴっぽいテイストがあって。つまり自己表現やコレクティブとしての意識と美意識との結びつきがあります(ネットカルチャーでいうエステティックスというか)。わたしが挙げたクィア・ラップの盛り上がりは、きゃりーぱみゅぱみゅ「つけまつける」がヒットしてレディ・ガガと比べられていたような一時期のことですが、この頃にはクィア理論家のJ・ジャック・ハルバースタムが『ガガ・フェミニズム:セックスとジェンダー、そしてノーマルの終わり』という著作を発表していたりします。

長谷川:クィアはもともと文化的な運動だったというのはよくわかります。社会に別の価値観を挿入していくための試みというか。わたしはクィアと身体改造の文化は親和性が高い気がしているんですが、身体改造をしている人とかも「今まではこういう美しさだけが正しいとされていたけど、実はこういう美しさもあるよね」と発見して、生き方の新しい可能性を尊んでいるようなところがあるように思います。

江永:そうですね。様々なセクシュアリティとライフスタイルの結びつきというものがあって、例えばイギリスのオスカー・ワイルドは大正時代に入る前から日本で紹介されている作家ですけど、耽美主義者のダンディな作家というだけではなく、当時はイギリスの植民地だったアイルランドの文学者であり、当時のイギリスでは違法とされていた男色を告発されて投獄を経験した作家でもある。そういうところでワイルドを再評価する議論もありますね。

 クィア理論という話だと、この用語が学術的に使われるようになった時期のエイズ・アクティヴィズムの状況が、ひとつ重要な事柄で、声をあげて姿を見せるというのが行政や公衆に対する異議申し立てにそのまま結びついており、それはまた、姿を見せあうことで、これまで交流がなかったコミュニティ間に連帯をつくっていこうという志向でもあったんです。学術的な意味でクィア理論という呼称を打ち出したテレサ・デ・ラウレティスは、同性愛者という括りでは見えないエスニシティの違い(例えばヒスパニック系かアフリカ系か、など)も含めて分析していくといった、インターセクショナリティの意識がありましたが、セジウィックのホモソーシャルな欲望という議論も、事後的には、ゲイ解放運動と女性解放運動を理論的に架橋する点で評価されたはずです。

 自分が共著『闇の自己啓発』で紹介したレオ・ベルサーニは、それでいうと、クィア理論内部の緊張関係を体現していると見られる代表的な書き手のひとりで、そもそもセクシュアルなライフスタイルとそこにある政治、つまり性生活の政治性というのが焦点にあったはずなのに、そこを回避しながら文化や社会を論じても、現行体制への迎合に収まるのではないか(というか、そもそも人々は、現行体制に取って代わる新生活を提案するといった企図から性生活を選んで実践するような存在ではなかったのではないか)と指摘するようなところがあります。それを「直腸は墓場か?」というような挑発的タイトルで論じたりする。こういうベルサーニのような議論はアンチソーシャル・セオリーと括られたりします。同じ枠で論じられるリー・エーデルマンなどは、クィアのコアにあるものを(クィアとされる)人々すら完全には体現しえないような死の欲動だ(社会から排除という仕方でのみ包摂されるような社会それ自体にノーを突き付けるポジション)、とぶち上げており、これをラカン(ジジェク)経由でギリシア悲劇の『アンティゴネ』に体現されるとする「否定性」と繋げたりするのですが、ここまで来ると今度は、それってこの世でなんとかやっていくのと何の関係があるのか、ただエクストリームな生き方を賛美しているだけではないか、などと批判を受けたりもする(ベルサーニは別の生き延びかた、エーデルマンは否定性の教育という形で、そういう批判に応答しようとしているとも映りますが)。

 もちろんアンチソーシャル系の議論が注目されるゆえんもあって、それは「クィア・アイ」とかレディ・ガガのようにファッションと自己表現の軸でクィアが受け入れられていったとき、でもそれだけでよかったのか、という話が出たからで、日本に引きつけて言うと、例えば「誰でもプリキュア(アイドル)になれる」とか「誰でもVRで別の身体になれる」とかが、商品の販促であったり動画配信ビジネスの賑やかしであったりにおさまってしまうのではないか、というような話に近いのだと思います(ゼロ年代アメリカ固有の文脈だと、消費文化を通した「クィア」の広まりが、イスラム差別込みのイラク派兵キャンペーンに関連して同性愛者が軍で受け入れられる流れと重なってしまった、みたいな議論もあります)。

 あと、さっき言及したハルバースタムが「クィア研究における反社会的転回」って論文でまとめてもいるんですけど、ひとつの指摘として、ベルサーニもエーデルマンも白人男性の同性愛文化、とくにナチズム前夜のドイツの男性同盟的なものだけを引きずりすぎではないか、みたいな話もあります。だからアンチ・ソーシャル系はダメ、という話ではなく、そこ以外の様々なカルチャーにもこの思想はつながっていくはずだ、とハルバースタムは実例を挙げていくんですけど。

 話を先ほどの理論と実践の関係性に戻すと、わたしは長谷川さんの「わたしはイルカを産みたい(I WANNA DELIVER A DOLPHIN…)」がすごく気になっていて、ダナ・ハラウェイを連想したりしました。犬をピックアップしている「伴侶種宣言」とか、オンコマウス——遺伝子ノックアウト技術を用いて発がんしやすい体質にさせられたマウスのことで、特許申請がなされてスキャンダルとなった種のマウスです——と人類の現状を比べたりするのが、さすが「サイボーグ宣言」の書き手だと思ったりします。

 ただハラウェイって現代魔女文化の文脈でも言及されるじゃないですか。そこを考えるときに大事なのはハラウェイ自身がインタビューで言っていた、修道女の生き様からの、そしてキリスト教のカトリックからの影響なのかなと思っていて。聖体拝領だと、パンと葡萄酒が、血と肉である。これは世俗的にはレトリック、喩えだという事になると思いますが、ハラウェイはそこで異なる世界を知っていたわけですよね。

 そのレトリックをレトリックではなく、マジにとらえようとする世界。ざっくり言えば、パンがマジで肉であるということを生きる世界。そういうマジ感に裏打ちされてハラウェイは犬はもちろん、遺伝子組み換えされたマウスでも、マジで友達であると論じている気がするんです。これはすごいことだなと思います。レトリックをマジで生きる。理論って、そういう境地では実践と通ずるのかな、って。

弱いつながり、パンを食べること、ただ単にともに生きるものとしての友達

青山:理論と実践は対照的なアプローチでありながらも、部分的に重なる瞬間があるのは面白いですよね。今日の議論もそうした境地に至れれば嬉しいです。

 さて、ここまで江永さんには、クィア概念の歴史的変遷やその広がり、濫用に対する懸念についてお話いただきました。クィアという語は一般的にかなりあいまいに受け入れられている印象がありますから、そこには拡張と濫用の可能性が背中合わせになっているように思われます。とはいえ、クィアという考え方が、他の分野における価値観の相対化やオルタナティヴを考える際のヒントにはなることは確かかと思います。たとえば今日のテーマですと、クィア的な文化戦略が従来の家族や恋人、友達といった関係性を拡張/逸脱していく端緒になるのではないでしょうか。

 こうした前提を踏まえた上で、お二人は友達とそうでないものを隔てるのは何だとお考えですか?

長谷川:殺せるか殺せないか、殺してもいいと思うかどうか、は一つの基準であると考えています。犬や猫やペットを友達ととらえる人は多いけれど、ラットはどうか、もっと小さな動物はどうか、植物はどうか、といったように、どんどん対象を小さくしていくとか、遠ざけていって、殺せるかどうかを自問自答していく。そうしていくと、小さな虫を殺してどう思うか、とかそういう話になってきて、さすがにそうなると何も思わないよねとなる。
わたしは魚がすごく好きで、友達感のある思いを持っていたりするけど、一方で普通に食べておいしいなと思ったりしていて、自分何? みたいに思っています(笑)

 でもこういう、一見思想と行動が矛盾しているように見えるのは人間同士の関係の中にもあって、たとえばある女性を愛しているという男性が、その人を慈しみながら殺したりすることもあって、なんとも言えないなと思います。

江永:食べたり食べなかったりする友愛関係もありうるかもしれない。たとえばアンパンマンって、みんなの友達なわけですが、周知のとおり、アンパンマンはみんなに自分の顔を食べさせています。いや、歌詞を真に受けたら友達は愛と勇気だけですけど、元々の話はともかく、パブリック・イメージだとみんなに親しみは持たれているからこう言ってもいいと思いますが、アンパンマンの友達は、友達であるアンパンマンを食べているわけです。幸村燕「やなせたかし『アンパンマン』におけるめいけんチーズの謎について」という文章を読んだことがあったんですが、アンパンマンの物語世界での擬人化された食品やほかの種族の捕食-被食関係や、言語が通じる通じないの区分をマジに捉えたらどうなるのかなどを考えたら、いろいろ語れそうですね。

 ちょっと物騒ですが、AI美空ひばりや漱石アンドロイドなどが実現されている延長で想像してみると、殺して食べた人間を友達として復活(?)させたりするホラー的な物語がつくれそうだなあ、と思ったりします。

長谷川:アンパンマンの例を考えると、食べる=搾取といったネガティブな捉えかただけではなく、与える、贈与するという捉えかたをすることもできるのかなと思いました。与えることで仲間が増えるとか、結束が強くなるとか、利益が得られることがありますよね。

 いま自分で思わず「仲間」って言って思ったのですが、友達と仲間の違いってなんなんでしょうね。目的を持つか持たないか、ということなのかな。仲間っていうと、目的をともにするという感じがしますよね。

 友達には目的がない。友達との関係って別に合意の上で成立するものじゃないので、勝手にコミュニケーションを送り合っているという感じがします。一方的な認識を相互に投げつけあって、それがうまくいくこともあればうまくいかないこともある。「わたしは友達だと思ってるよ」という前提でコミュニケーションをして、向こうもなんとなく友達っぽいコミュニケーションをして、それがつながっていって、ゆるく友達だということになっている。

江永:一方的なコミュニケーションということで言うと、「推し」しかいなくても大丈夫みたいな生き方もあるのかもしれないと思います。SNSとかでインフルエンサーを眺めて、たまにマシュマロ送るだけで満足できちゃうみたいな関係の仕方ですね。「推し」というものは村田沙耶香『消滅世界』とか宇佐見りん『推し、燃ゆ』とかの文学作品でも、それにまた色々な漫画作品などでも描かれてきていますよね。関連して、進化心理学者・人類学者のロビン・ダンバーとかが推しとかファンダムについてどんな感じで捉えているのか、まだ調べられていませんが、気になってます。

 推しにおいては「公式が解釈違いをする」ということが成立するわけじゃないですか。一方的だけれど強い情が送られていて、それがまかり通っていると思います。友達だと思っていたが推しに過ぎなかった、みたいな事態が、あとから解釈されて明らかになるということは起きうるんじゃないかと思います。

長谷川:マッチングアプリで形成される恋愛市場においては、恋愛強者が一人で総取りしてしまう事象が起こりがちですが、最近これに近いことが友達市場にも起きているように思えます。インフルエンサーを推すことで人間関係を満足させる、というのはその顕著な例なのかなと。しかし一方で、そうした風潮に疲れた人たちが別のアプローチで関係性を築こうとするという流れも散見されるように思います。

 例えばこのあいだノルウェーに行ってたんですが、そこでOkCupidで知り合ったというカップルに会って、すごく示唆的だなと思いました。OkCupidっていうのは、ひと昔前に出てきたウェブサービスで、当時の記憶だと50問くらいの大量でやたら細かい質問に答えてマッチングするというものです。一時期は廃れていたんですが、最近復活してきているらしく、つまりティンダーみたいな外見至上主義恋愛市場で競争するみたいなアプリから、コストをかけてマニアックなマッチングを志向するアプリへと揺り戻しがきているわけですね。このようにこれからは、友達づくりの強者が友達を総取りするような仕組みではなく、別のありかたで出会うことを促すようなオルタナティヴなサービスが出てくるかもしれません。

青山:恋愛にせよ友達関係にせよ、こうした自由競争が加速したのってグローバル化と連動していますよね。地理的な近接性が人間関係の条件から排除されて「もっとも相性のいい誰かが世界のどこかにいるはず」という幻想をある種ベタに信じやすくなった。しかし特に友達においては本来、地理的な近接性は非常に重要な条件だったように思われます。たまたま同じ時代に同じ場所に生まれただけで他に共通点を持たない人々が、それでも同じ時代に同じ場所に生まれた以上、共生しないといけない。役割を分担し、争いを避け、互いにすり合わせながら生きていこうとするなかで生まれたトライブ的な紐帯に、友達の原型を見ることはできるかもしれません。例えば、仲間を意味する「companion」の語源は、パンをともに食べるという意味です。あるいは連れ合いを意味する「mate」の語源は肉を意味する「meat」と繋がっています。もちろんここにはキリスト教的な儀式性が織り込まれているわけですが、同じ土地で同じ時代に同じものを食べることが、仲間という関係性のはじまりであったとは言えるでしょう。それからテクノロジーが発達して、地理的・時間的制約を超えて人がつながれるようになり、情報のみで自由なマッチングができるということになった。けれどもすべての人がそれに耐えられるわけではないということが明らかになってきた。今は地縁から知縁へと発展していった関係性の在り方をふたたび地縁へと結びつけなおすための方法が問われているのかもしれません。

長谷川:自分を含めてときどき「動物と友達になりたい」と言う人がいますが、それは何をもって友達だと言っているのかな、と思うことがあります。最近のフィクションでも『シン・ウルトラマン』や『ザ・スーサイド・スクワッド』などは、エイリアンといかにコミュニケーションを図り、良い関係になれるか模索するという話ですが、信用されること、信頼関係があるということの根拠づけはどこでなされるのかな、と考えさせられました。

江永:住んでいるトイレにたまにヤモリが出ることがあるんですが、何度か見るうちに、「こいつは生きている……」「こいつも生きてるんだな……」と感じ入って元気になることがあります。イエグモとかもそうですね。半透明で黄色くて小さいのが、床を歩いていると、アドベンチャーやってるねえと思う。クモ視点のゲームとかあるじゃないですか。そういうのを投影しているのかもしれない。

 まあそういうときは、だいたい自分が落ち込んでいるときですが……。落ち込んでないときは気に留めてないかもしれない。落ち込んだときだけ関われる存在なんです。ヤモリからすれば勝手な言い分だろうと思いますが。わたしが勝手に落ち込んでいる一方で、ヤモリは勝手に生きていてくれる。勝手に生きているから、わたしも勝手に元気になれる。恭一郎の「好きなことで、生きていく」とか観ますか? 勝手に元気で生きているひとを動画で観て元気になってしまうという意味で、似たコンテンツとして捉えているときがあります(そういう映像作品なのであって、パフォーマンスではあるんですが)。二次創作の連載作品を追っているときも、動画配信みたいな気持ちで、「このひとも生き続けているんだな」って思うんですよね。合いの手とかはありますが、掛け合いとか大喜利というのは、類型があって、意味のある言語というより鳴き声めいているので。やはり対話ではない感じがする。ネット小説だと『電車男』的な掲示板文学のリバイバルがあって、異世界転生した人間たちが脳内掲示板で駄弁るとか、近未来の世界でVRMMO型のクソゲーを品評するコミュニティの話とか、また動画配信者もの小説があるんですが、そういうのには「推し-ファン」関係と友達関係が曖昧に混ざり合った独特の関係、妙な親密さのありかたが描かれています。ある種の雑誌の読者投稿欄での、編集部も混ざった、読者たちのベタっとした関係に近いものなのでしょうか。これらも勝手な一方通行ですよね。コメントとかでのやりとりはあるといっても、送ったものをどう処理するかは相手次第、っていう感覚があると思います(ガチでやりとりにハマるひととか、マッチングのために場を使うひとは、そうではないかもしれませんが)。

 家族や恋人は、そういう関係ではないはずですよね。ある程度かけひきというか、相互に思惑のあるコミュニケーションが伴うはずです。それに家族も恋人も勝手に生きていてくれるものではない。ケアが必要です。でも、もしかしたら友達というのは、家族や恋人というよりも、家の中に出るヤモリのようなものなのかもしれない。

長谷川:弱いつながりですね。

江永:まあ、さっきのヤモリやクモは勝手に生きていてくれるから一方的にそう思えるわけですけど、お世話しなければいけない動物というものがいた場合、友情とは違う気持ちが生まれるかもしれませんね。介護をしなければいけない関係、コストをかけて支えなければいけない関係性の中で、友情と呼べる感覚は芽生えるのかな。

 あとやっぱり、一方的な思い込みを投げることで自分がそれを友情だと思えるのなら、その対象が生物じゃなくてもいいはずです。家の中に突然現れるものがヤモリじゃなくてもいい。滝が友達でもいい。今日の滝、元気ないな、どうした? みたいな。

 そういえば幼い頃、住んでいる部屋に鉢植えがあって、土の上をトビムシ、ちいさい蟻みたいなやつが歩いてたのをよく眺めていたのを思い出しました。この考えでいくと、わたしは蟻と友達だ、とかも言えそうですね。あ、野外の蟻の住居を破壊したこととかものすごく都合よく忘れていたのですが、これはすごい勝手ですね。

長谷川:蟻には蟻のネットワークがあるので、あのネットワークに入れたらたしかに友達みたいになれそうです。滝もそうかも。滝つながりで思い出したんですけど、ちょうど昨日『養老』っていう能を観ていたんですが、能というのは人の霊だけでなく、神や精霊などノンヒューマンとの対話を展開していくものなんですよね。そう考えると、日本人って昔から人ならざるものに人性を見出すみたいな文化を愛でてきていますね。

江永:日本に限らず、現代人類学ではそういう話はけっこうありましたよね。パッと出てくるのだとヴィヴェイロス・デ・カストロとか、エドゥアルド・コーンとか。その関連でいうと、個人的に、アルフォンソ・リンギスをよく読んでいます。思弁的実在論で知られる、グレアム・ハーマンの指導教員のひとりですね。アニミズムと一括りにして思考停止せずに、もっと具体的なケースを取り上げて考えるという営みです。

 日本のアニミズム、みたいな話題だとどうしても自然豊かな田園がうんぬん、みたいな話に寄りがちだと思うんですけど、わたしはもっと(ティモシー・モートンが言う)ダーク・エコロジー的な観点というか、都市のこととかに目を向けたい気持ちがあります。例えば、下水道から出てくる蚊と友達になれるか? とか。

長谷川:そういうアーティストはいますね。バイオ系アーティストのLaura Beloffが「The Fruit Fly Farm」という作品で、小蝿をずっと身体にまとわりつかせながら生きてみる、ということをやっていました。曰く、なんかいい感じに仲良くなれてるらしい。向こうがどう思っているかはわかりませんが、少なくとも互いにいい感じに生きているので、共生はできるわけですね。今後はそこにテクノロジーを使って心理的なエモーションを付与していくこと、サポートしていくことがポイントになりそうです。友達っぽくなった小蝿と言っても、持って生まれた五感では個体認識はできないわけで、代替不可能な友達であるとは言い難い。そこに何らかのテクノロジーが入ってきて個体認識ができるようになると、より友達っぽくなってくるのかなと思います。

江永:本当に通じ合ってるかどうかは(本当って何のかは)さておき、通じ合ってるという感触をつくるということですね。

長谷川:生物だとそうなるわけですが、機械に感情移入できる/したいという人もいますよね。わたしは機械については生物と同様にとらえることができないので、どうなるんだろう、おもしろそうだな、と思っています。

江永:去年公開された映画『TITANE チタン』は自動車との子供と思しき存在を妊娠したひとの話でしたね。それで済ませるにはかなり色々とボリュームがある物語でしたが。

 ヒトとモノのあわいについてだと、漂流先で水死体と友達になる『スイス・アーミー・マン』といういかれた映画がありましたね。浄水器や水上スキーの代わりになって、まるで会話のごとく(というか会話にしか聞こえない)空気漏れを起こす死体。このあたりをマジに捉えることにつながるのかもしれない。あるいは、遺影。遺影はモノだけれど、単なるモノとは思われていないですよね。人が遺影と関係するとき、そこにはヴァーチャルな人間っぽい他者が入ってくる。君主が亡くなったとき、リアルな身体と別に君主の蝋人形をつくって焼くという風習を扱った、アガンベンの『ホモ・サケル』とかも、こういう観点が入っている話だよなと思います。

 最初にクィア理論に関する話で、分散されて孤立化したマイノリティ同士が出会って連帯するみたいな話をしましたが、一般に、少数の仲間とのマッチングというものを考えると、出会いづらいぶん出会ったあとに離れづらく、出会った相手とどうにか関係を続けていくしかないという面が考えられます。この場合、離れてしまっても、遠くにいる、かつて出会ったひと、出会えたかもしれなかったひと、出会えないけれど知っているひとと、自分は同じところがある、という感覚を持つことの重要性がせり上がってきます。ヴァーチャルな他者との同じさを感じ取り、関係を持つことで、生き延びていく。これに似た話として、フランスの革命家ブランキが獄中で書いた変わった天文書『天体による永遠』の宇宙論なんかも面白いです(芥川龍之介が『侏儒の言葉』で言及している人物ですね)。すごい乱暴に言うと、宇宙の構成要素は有限で、組合せのパターンも有限なはずだから、無限回の組合せのうちに絶対に自分の生きたような場所で自分と似通った心身を備えるコピーのような存在が生まれているはずだ、という。それが無際限にあるはずだ、という。だから、自分に似たものが自分と同じような運命を辿ったり、どこかで少しだけ別の生き方をできていたりするはずで、それを思うのが心の慰めなのだ、というのがブランキの、まあ暴論なんですが、そういうヴァーチャルな時空間に拡がる不完全なコピーたちの想像上のコミュニティ、というビジョンには感じ入るものがありますし、例えばベルサーニなども形式の反覆を見つけ出すという仕方で似たビジョンを提示しているように思えることがあります。

寄生としての妊娠・出産、母親としてのコンビニ、関係性とはモジュールか

長谷川:最近、松浦理英子の『犬身』『最愛の子ども』を読んでいるのですが、そこには、友達関係とは言えないような、言えなくもないような......といったなんとも言えない関係が描かれていておもしろいんです。友達って、愛情はあるけれどセックスはしない関係のことなのかな、と思いきや、セックスフレンドみたいな関わり方もあったりしますよね。そういう意味ではわたしは、やっぱり友達とそうではない人を隔てるのは期待の有無なのかなって思います。期待をしすぎない関係。

 恋愛・性愛・友情が混ざってロマンチック・ラブができて、それが社会を形成する中で、友達関係も、社会を逸脱しないようにその影響下の中で育まれてきているというのが現状だと思うのですが、今後はそういうものではない関係としての友達を目指すサービスが出てくる気がします。

 社会制度として作られた愛。お見合い結婚とかはわかりやすいかもしれませんね。あれって、社会が用意した枠組みから逸脱できないようなシステムじゃないですか。

江永:ただ、現在の保守的とされている婚姻制度の中からズラせるところをいろいろ探してうまく変形させるとか、いわゆるハックすることはできるかもしれないし、相応に意義深く、知的にも面白い気がします。既存の枠組みの中でどうやったら生きやすくなるのか、割りを食っている人が減るのか、形式上はいままでと同じと見せかけて実態は全然違うみたいな状況の達成を模索するという方向性ですね。

 唐突になりますが、わたしは長谷川さんの「わたしはイルカを産みたい(I WANNA DELIVER A DOLPHIN…)」のステイトメントとかを見ながら、そういえば自分自身もある種の思考実験を子供の頃にしていたな、と思い出させられました。昔、「世界まる見え! テレビ特捜部」っていう世界の数奇な事件を紹介するバラエティ番組があったんですが、それで、アマゾンに飛行機が落ちて生き延びた少女の話が紹介されてたんです。その中で、少女がウマバエに喰われたりして大変だったエピソードが語られていて、それが衝撃的だったんです。ウマバエとかは生きた人間に卵を産んで、その幼虫が皮膚を食べて育つので、寄生バエみたいな言われ方もするみたいなんですが、自分の身体で蝿が生まれ育ち、巣立っていくというのが、どういう感覚なのかという考えさせられました。自分の身体の中に自分以外の生命が宿されて、やがて生まれてくること。ボディ・ホラー的なイメージですが、いわばハエを産む人体のヴィジョンがそこにありました。

長谷川:なるほど。女性でも、妊娠・出産のとらえかたって様々で、一概に幸福とか祝福とかと言えるわけではなくて、妊娠・出産に恐怖感をいだいている人や、嫌悪している人、妊娠・出産をしたくないと考えている人はいます。彼女たちにとっての妊娠って、いま江永さんがおっしゃったような寄生に近い感覚があると思いますね。妊娠って自分の意志やコントロールとは別に勝手に発生して、勝手に大きくなっていく一面もあるので、寄生されて、なんか育ってて怖っ! という感覚は普通にあると思います。胎盤は卵から発生して子宮壁に侵食するので、ほんとに寄生みたいな感じだと思うんですよね。それを寄生ととらえて忌むかどうかは、結局のところそれを好きになるかどうかの違いでしかないのでは、と。そういえば『寄生獣』は、「勝手に寄生されて怖っ!」から始まって、少しずつ関係性が変わっていく話でしたね。

江永:『寄生獣』はそうですね。『寄生獣』よりもう少し禍々しいですが、『エイリアン3』とか『エイリアン4』、さっきも挙げた『TITANE』も、共生しがたいものと一時的にであれ共存する瞬間がありました。リアルな事例はむずかしいですが、フィクションではSFやホラーという形でたくさん描かれてきていますね。

 後藤浩子『〈フェミニン〉の哲学』という本の一節がとても迫力があって、その一節は『〈見えない〉欲望に向けて』というクィア批評本の著者の村山敏勝のブログでも紹介されているんですが、孫引きするとこういう内容です。「<私>と<受精卵>の対立だけが特別視され、そこに国家という仲裁人が介入してくる必要が果たしてあるのだろうか。それは<私>対<大腸菌>の場合と同様に考えられるべきであって、私が大腸菌との関係をどうつけるかを毎度国家に打診する必要はないように、受精卵との関係のつけかたも国家に伺いをたてる必要など本来ないのではないか」(後藤256頁)。

 そもそも現行の人体でも、どこまでが自分なのか、という話ができますね。持って生まれた身体でも、内臓は他者のように扱われるし、そういうレトリックで語られがちです。「内臓と仲良くなろう」「内臓をいたわろう」とか。

長谷川:たしかに臓器は他者感がありますね。

江永:その方向で話を進めていくと、自身を構成しているミトコンドリアも他者ということにしているSFやホラーもあります。『パラサイト・イヴ』とかは代表的ですね。

長谷川:臓器もミトコンドリアも共生生物と言えるかもしれません。突き詰めていくと、なんでも友達と言ってしまうこともできるし、友達でないとも言える。友達とは何か? というよりも、他者との望ましい関係性/望ましくない関係性とは何か、ということを考えるほうが問いの立て方として適切かもしれません。エイリアンもので言うと、寄生される/敵対する/共生する以外の関係を探り、その中で望ましい関係性とは何かを考えるということ。

江永:交渉不可能だと思っていた存在が、ひょんなことから交渉可能になるみたいなパターンはありますね。関係性も変容するし、関係性が生まれる糸口が偶然発見されるということもよくあることです。

長谷川:交渉可能になったときに初めて友達となりうるんでしょうかね。理解が及ばないけど、それがおもしろいから一緒にいる、という友達のパターンもある気がします。というか、わたしはそういう関係としての友達のほうが好きですね。

青山:食う/食われる、マッチングアプリ、地理的隣接、お見合い、寄生、出産......と、さまざまな関係性の在り方が浮かび上がってきました。最近は人間が人間だけではなく、様々な他者に囲まれて生きているということがわかってきていますし、動物や虫や植物と意思疎通ができ(たかのように見え)る技術も研究されています。あるいはAIを始めとした、生き物のような機械も出てきています。そうなってくると、人間以外とコミュニケーションをとるということが、非常に具体的な現実として出てくるわけです。ここから先は、そのときどのようなコミュニケーションがありうるのか、ということを考えてみたい気がしました。そこには未来の友達を考える上でも重要な示唆があるように思えます。ここまでで何か質問がある方はいらっしゃいますか?

質問者:「なんでも友達」となってしまうと危険な気がしますが、そのあたりはどうお考えでしょうか。たとえば母親のように身の回りのことをやってくれるサービスがあったとして、そのサービスは母親であると言えるでしょうか? 「コンビニが母親」というフレーズを耳にしたことがありますが、たしかに母親の持つ機能を分解していって、機能別にウーバーイーツやコンビニなどに代替可能であると整理していくことは可能だと思います。しかしだからといって、ウーバーイーツやコンビニが母親だとは言えないと思います。それと同じように、友達というものを機能で定義しようとすると意味をハックしておかしなことができてしまうような気がするのですが、いかがでしょうか。

長谷川:「コンビニが母親」というフレーズは初めて聞きましたが、なかなかおもしろいレトリックだなって思って、わたしはいいなと思いました。恋人関係でよくある問題として、恋人に母親を求めてしまうということがありますが、コンビニが母親の代替サービスを展開していくと、母親代わりを人間に求める必要がなくなって、問題が解決するなと。「お母さんに癒されたいの? だったらコンビニ行ってきたら?」みたいなコミュニケーションが生まれるのを想像すると面白いですね。

 そもそも、今もコンビニってけっこう面白い場所だなと思ってるんです。飛び込みで入れて、中がとてつもなくシステマティックになってるわけですよね。あれはすごい空間だなと思います。コンビニが親だったり恋人だったり友達だったりの代わりをするサービスを提供していると仮定して、その代替親/恋人/友達はあの空間でどんなことをしているんだろう、どんな姿をしているんだろう、と想像してみるのは楽しいですね。

青山:高度資本主義社会に最適化していったコンビニはもはや愛を感じるサービスを提供している、ということですよね。コンビニというのは文字通り利便性という機能を極限まで突きつめていったものなわけですが、その果てに母親といういわば愛情の象徴のようなものを幻視するのは面白いなと思います。遠くの親戚より近くの他人ではないですが、コンビニに都市の中での安息を見出す目線は共感されるものでしょう。「コンビニが母親」という言い回しは皮肉なのかもしれませんが、それは母親との人間関係を機能に還元しているわけではなく、むしろコンビニに機能以上のものを見出してしまう人間のバグ的なものを指摘している言葉に感じました。先ほど「companion」は「ともにパンを食べる」という意味だと言いましたが、「friend」の語源は「愛」を意味するそうです。今のコンビニにはパンも肉も愛情も売っているのかもしれない。

 あるいは、ある関係性に家族や恋人、友達という言葉が与えられることで当事者たちが特定の役割=機能を担わされてしまう、つまり「xxらしさ」を求められてしまうのだとしたら、それをコンビニをはじめとしたサービスに外部化していくことはある種の解放のようにも映ります。母親らしさ、恋人らしさ、友達らしさといった「xxらしさ」への欲望をアウトソースすることでわたしたちはもっと純粋な人間関係をまなざすことができるのか。そして「xxらしさ」を肩代わりしていったコンビニにわたしたちが親しみを幻視してしまうのだとしたら、人間関係における機能とそうでないものは鶏と卵のような関係性なのだろうか。非常に示唆深い事例だと思います。

江永:わたしはATMに話しかけられたりするとホッとすることがあります(逆にたまにイライラしますが)。コンビニの無人レジでもそうです。

 そう言えば、機能ということで言うと、今日ここまでで話してきたのは愛着に関する機能ばかりで、たとえば基礎的な生活習慣を習得するとか、あるいは価値観とか知識を学ぶとか、そういう教育の視点が抜けていた気がします。友達とは、感情をやり取りするだけでなく、それと一緒に何かを教える/教わるということがあるので、教育の機能も含まれていると思いますね。

 こういう風に機能に分けていったときに最後に何か残るものがあるはずだ、と進めていくと、リストアップしているどの機能にもあてはまらない「本当の友情」みたいなものが出てくるのではないか、という議論がありますが、長谷川さんはどうお考えですか?

長谷川:わたしは、友達と呼ばれているものは友達を構成する機能群が統合されたものという気がしていて、機能に還元されない「友達の本質」みたいなものはないのではないかと思っています。

擬人化に見る人間中心主義、人間をやめて他者になる

江永:要素還元的に友達を語れるのかという視点は、物理的実体を伴わない概念、それこそ数式なんかを友達にできるのかを考える上で特に有効なやりかたかもしれませんね。

 話は変わるのですが先日、「擬風景展」というグループ展で横川十帆とイカのライブパフォーマンスを観ました。イカの体色変化で映像表現をなさっていたのですが、自分の作品に対して「作品に使った(出演した)イカはあとで食べているけど、食べるのを言い訳にして死なせているようになるのが悩ましい」といった趣旨の発言をなさっているのが聞こえ、印象深かったです。人と動物のあいだの関係性について考えると、まだまだ人間中心主義的な視点って色濃いですよね。これも拝聴した内容だったんですが、人間をはじめとした脊椎動物を中心に考えているから、イカみたいな無脊椎動物に対する研究倫理の整備は、マウスなどに比べると、ずっとゆっくりだったようです。

長谷川:最近だと魚や植物にも痛みがある、という研究もありますね。とはいえ、人間にとって痛みは忌避すべきものだからイカにとってもそうであるはずだ、というのは脊椎動物中心主義の別の側面にすぎないともいえるでしょう。イカに痛覚はない/ある(から人間と同じように扱うべきだ)、どちらにしてもわたしたち人間が感じる痛みが基点になっています。

江永:イカにとっての痛みと人間にとっての痛みは別かもしれない、という視点は面白いですね。わたしたちは今とは異なる痛みとの関係性をとり結べるかもしれない。それこそ、痛みと友達になれるのか、という問いもありえますね。単に痛みに耐えればいいわけじゃないはずなので、なかなか想像の難しい関係性です。

長谷川:脳内の電気信号をいじって痛みを快楽に変換するみたいなフィクションはありますが、痛みを痛みのままウェルカムするにはどうしたらいいんでしょうね。無痛症とかを見れば明らかですけど、痛みをネガティブなものとしてとらえないことは死に直結するのでなかなか実現は難しそうです。

江永:直接的ではないかもしれませんが、痛みに対して「危険を教えてくれてありがとう」みたいな感謝を抱くことは可能ですよね。例えば、長期的な病気に悩まされている人が、病気をある種の同居人のようにみなしていかに付き合っていくかを考えたりする場合もある。このように、痛みを擬人化することで関係性を取り結ぶことはありうるかもしれません。クィア研究とディスアビリティ研究の交差する理論として、クリップ・セオリーというものが提唱されていますが、そこでは、遺伝性の難病をバネに、スーパーマゾヒストとしてパフォーマンスをおこなったボブ・フラナガンという人物が論じられたりしています。もちろん、苦しみをポップに飼いならすような表象が、現に苦しんでいる当事者の切実から目を背ける口実になるといった問題もあり、安易な擬人化やポップアイコン化に対しては、そんな簡単なものじゃない、という反論も当然出てくるわけですが。

長谷川:分人の考え方を思い出しますね。自分を構成するある側面を客体化して別の人間のように扱うことができるのであれば、それを友達だと言ってしまってもいいかもしれません。

江永:分人の考え方は、わたしには複数アカウントをSNSで使い分けるような話に聞こえることがあります。それは、あたかも分かれているように使い分けることであり、本当に分裂してしまっているわけではないのかもしれない、と。とはいえ、意識が分裂することを、友達をいっぱい作れることとして捉えるのは面白いです。

青山:江永さんが最初におっしゃっていたイマジナリーフレンドの話を思い出しました。ここで気になるのが、動植物や概念といった「人間以外の友達」について考えるときに擬人化は避けられないのか、という点です。

江永:人間以外を無理やり人間に見立てることでコミュニケーションを偽装しているのでは、ということですね。直接的な答えではないですが、わたしはそもそも、ホモ・サピエンスを人間に見立てているのが対人関係なのではないか、と考えてしまうことがあります。誰か人間を人間ではないペットに喩えるという見立ては一般的にありますし(辻仁成作詞作曲の「ZOO」を思い出しています)、逆に人間を人間以外のものを基準に見立てることで築かれる関係性もあるのではないでしょうか。

青山:確かに擬人化と擬人外化は相互に交通しているかもしれません。ケモナー作品って一般的には動物を擬人化していると捉えられますけど、同時に、動物の特性になぞらえることで人間同士の関係性を描いているという側面もあります。テクノロジーの拡張によってさまざまなものとコミュニケーションできるようになる、という夢が語られる時、どうしてもそれは擬人化による解釈の暴力なのではないかと思ってしまうのですが、逆方向へも展開できるというのは新しい気づきでした。それを推し進めていくと、人間が擬イカ化/擬植物化/擬AI化した世界というのもあるのかもしれませんね。

江永:わたしは、昔あだ名がWindows2000だったんですよね。なんか処理速度が遅くて身体の動きもガタピシしてたからなのかなと思うんですが。それでいうと、自分でも自分のことをbotみたいだなとか思って笑っちゃうことがあるんですけど。こういうのって、別に馬鹿にしたり見下したり、というだけではなくて、そういう風に見立てることで、なんというか、優しくなれる場合もあると思うんですよね。他人に腹を立てたり責任を問い詰めたりするのは、期待しているからこそ起こることだし、期待が過剰だと、それこそ「解釈違い」で責め立てるようなことになってしまう。それを和らげる作用もあるのかな、と。

青山:人間だから期待する、botだから期待しないというのには、レトリックに内在する人間中心主義を感じますね。

江永:これまでわたしたちは人間というものに期待しすぎてきたように思うんです。健康で倫理的、論理的で一貫性がある存在として、人間という概念を理想化しすぎてしまった。ここには人間とは理想的な男性である、という近代的なパースペクティヴがあるのだと思います。(この発言には文字起こしをした樋口さんの思想が混ざっています。わたしも概ねそう思いますが。)

長谷川:キャロライン・ペレス『存在しない女たち』では、これまでの研究ではそもそも女性のデータがとられてこなかったので既存の平均的人間像の中には女性が含まれていない、という指摘がされていましたね。この指摘は非常に重要だと思います。

江永:ピーター・シンガーは『動物の解放』の序文で、反フェミニズムの文脈で唱えられていた「男女の平等を考えるのであれば、人間と動物の平等も考えなくてはならない」という発言を動物解放論の先駆として引用する、という非常にアイロニックなことをしています。この露悪的な手つきに対する是非はあるかと思いますが、人間=男性中心主義から脱した先においては、動植物や機械を含む広範な他者を通じて再び人間という概念を組み立て直す必要があるのだと思いますね。

青山:クィアの話題から友達の機能とは何かという問いを経て、最終的に人間中心主義の問い直しにまで議論が発展しました。わたしたちは友達というものに対して共感可能性を必要としている一方で、自分の想像の外側を見せてくれるような外部性を欲しているように感じます。こうした同質性と異質性のあいだでせめぎ合う屈折した欲望の対象として友達を捉えた時に、人間と人間以外のパースペクティヴが反転するような可能性が見えたのは非常に面白かったです。ありがとうございました。

 長谷川さん、江永さん、最後に一言ずつお願いします。

長谷川:わたしはやはり友達という概念はとてもポジティヴなものだと思っているので、友達をつくるテクノロジーがさまざまな角度から出てきてほしいと思いますね。そのためにも友達を構成する要素をどんどん分析・分解していくことは必要だと思います。今日の座談会がその端緒になったらいいなと思いました。

江永:「友達」について自分が考えるとき、忘れがたいのは、平井堅の「キミはともだち」という曲です。この曲のMVでは龍と子どもが相棒になるのですが、最後に子どもが死んでしまい、龍が涙を流しながら燃え上がって子どもと融合するんです。それで燃え上がった不死鳥の灰から雛鳥が出てくるみたいに、竜人が出てくる。友達というありふれた言葉からこういうイメージが出てきて、しかもそれがポピュラー・ソングとして流布しているのは実はすごいことなんじゃないかと。このように、自然にあるとみなされ、ふだんづかいであるような概念からイメージを育てる、プロトタイピングしていくというのは、大事なことだと思っています。「未来」や「友達」といったありふれた言葉にこそ、それぞれにとって自然環境に近しいような、いろいろなものが託されていますから、複数の視点から眺める必要があります。それに、日常の言葉だからこそ、全く内実が異なるにせよ同じように日常を生きるもの同士として、話をすることができるのではないかと思います。その上でいままでとは違う捉え方ができると、既存の価値とは別のものが生まれるのではないかと思いました。

 時空を歪めますが、この対談の編集作業中に、グーグルのエンジニアが対話特化型AI(お喋りbot)とやり取りを続けた結果、このAIに人格や魂があると主張しはじめたらしい、というニュースに触れました。冒頭で青山さんが述べていたチューリングテストにも通ずる話ですよね。タイムリーなことだと思います。

 ここで改めて思い出されるのがチューリングテストというものの元ネタです。文章だけでその回答が人の手によるかAIの出力かを見極めるというこの思考実験は、もともとはイミテーション・ゲーム、ざっくり言えば文章だけで書き手の性別をあてるクイズ的な遊びを踏まえているものでした。これは、何気ないイメージが革新的なものにつながる可能性を物語る逸話ではないかと思いますし、ここまで話してきた内容と合わせて、様々な捉え方ができるものだと思います。それでは、今回はお招きいただき、ありがとうございました。


◆スピーカープロフィール

江永 泉(えなが・いずみ)
書き物:江永泉・木澤佐登志・ひでシス・役所暁『闇の自己啓発』2021.01.21、江永泉「少女、ノーフューチャー:桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』論」(『Rhetorica #04 特集:棲家 ver. 0.0』2018.11.25)、江永泉「ナタの時代、あるいはデスゲーム的リアリズム」(『S-Fマガジン』2021.12.25)/ブログ記事:「輪廻転生、ディストピア」(ボカロ曲)「On Co-me Da U?」(コウメ太夫)。

長谷川 愛(はせがわ・あい)
アーティスト。バイオアートやスペキュラティブ・デザイン、デザイン・フィクション等の手法によって、生物学的課題や科学技術の進歩をモチーフに、現代社会に潜む諸問題を掘り出す作品を発表している。 IAMAS卒業後渡英。2012年英国Royal College of ArtにてMA修士取得。2014年から2016年秋までMIT Media Labにて研究員、MS修士取得。2017年から2020年3月まで東京大学 特任研究員。2019年秋から早稲田大学非常勤講師。上海当代艺术馆、森美術館、イスラエルホロンデザインミュージアム、ミラノトリエンナーレ、アルスエレクトロニカ等、国内外で多数展示。著書に「20XX年の革命家になるには──スペキュラティヴ・デザインの授業 」(BNN新社)など。

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