緊急事態宣言14日目-ポスト「コロナ・ピューリタリズム」考、或いはアウトサイダーの微かな期待(2020/4/22)


まずはこのnoteを読んでいただきたい。

個人的には、先日一時期全文公開されていたイタリア人作家パオロ・ジョルダーノ氏のエッセイ『コロナの時代の僕ら』と同じくらい、いやそれ以上に感銘を受けたコロナ論考であった。
(著者あとがきのみ、今でも此方で読める)

このnoteの著者、精神科医の斎藤環氏は新型コロナウイルス、いやウイルスそのものが「原罪」的であるという。
自身が罪を犯したか否かを問わず罪があるものとして振る舞うべきだ、という宗教的・倫理的要請は、不顕性感染という厄介なケースが多いこのウイルスへの対処法として「(真偽はともかく)かかっているものとして振る舞え」という昨今の社会的・医学的要請とパラレルである。
ゆえに、原罪という概念と同じく、ウイルスおよびウイルス感染という事象は私たちの宗教的・倫理的基盤となりうる。
これを著者は仮に「コロナ・ピューリタリズム」と名付ける。

外出、交流、旅行、外勤、外食の「自粛」「要請」。
これらは元々純粋に医学的見地から生じたものではあるが、その実私達にとっては倫理的要請と感じられる。
そして、私達は医学的根拠を以ってではなく、倫理的に正しいことをしようという使命感に燃えてこの要請を遂行しようとする。
やむなく、或いは敢えてこれらの行動を起こした者は「罪」の意識に苛まれ、他人がこれらを行なっているのを目の当たりにした者は一斉に彼に石を投げる。
(今現在、営業中商業施設の密告が相次ぐ大阪を想起されたい)
感染者、回復者への批判や差別も然りだ。

ひきこもり。
他者との接触の否定。
人と人が親密に交わることの否定。
それに伴う相互監視の強化。

これらはコロナ・ピューリタリズムが齎した新しき倫理であり、教義である。
しかしこれは現在のようなウイルスが蔓延している有事にのみ有効な謂わば「時限法」のようなものであり、めでたく特効薬やワクチンが開発され平時に戻った暁に適応されるべきルールではない。

筆者はコロナ・ピューリタリズム、及びそれが齎した価値観が引き続き平時でも生き延びることを警戒する。
ただ、この価値観の元で快感を見出し、逆に「生きやすく」なった人もいるだろうということも示唆し、そういった謂わばアウトサイダーたちが再び排除されぬためにも、世の中の修復は慎重に行わなければならない、と当該論考を締めている。

以上はかなりの「意訳」が入った要約メモである。
ご自分でしっかりと内容を把握されたい方は原文をお読みください。

というわけで、ここからは純然たる私の駄文である。

最後まで読んで、私はあっちゃーと頭を抱えた。
何故なら、私は正に斎藤先生がその存在を懸念し、そしてお優しいことにポストコロナにおいても排除されてはならないと心配してくださる
「接触回避を享受しそこに快適さを覚えている」
アウトサイダーに他ならないからだ。

慌てて言っておくと、実は私、そこそこ友人が多い。
しょっちゅう集まったりご飯を食べにいったり映画を見たり泊まりがけで遊んだり、はたまた短い旅行に行ったりもする。
側から見ると「リア充」ではないかとも思う。

だが私の本質はひきこもりだ。
長期の旅行は一人でなければ到底無理だ。
団体旅行?
発狂して朽ち果てる。

そして、自らが選び取った訳でもない人間に常に囲まれている職場環境は、正直毎日苦痛でしかない。
ここだけの話なのだが、現職場(広いフロアで人たくさん)で働き出してからというもの、私はボトルガムを週に2本消費している。
(多分今になって歯にガタが来始めているのはそのせいだと思う)
キシリトールはお腹がゆるくなるという現象は根性で克服した。
昔から無意味なことでしか根性が発揮できない性分(?)である。

とにかく、嫌なのだ。
集中している時に話かけられるのも。
無駄な会議で強制的に時間を費やされるのも。
忙しい時の他愛もない雑談も。
メクラ判ばかり押す無意味な書類の応酬も。
おっと最後に恣意的に余計なもの混ざりました。失礼。

という訳で、私は仕事において必要最小限以上のコミュニケーションというものが大嫌いだし、意味もないし無駄だし、もっと言えば有害で有罪だと思っている。
何の罪かって?
人から時間を奪う大罪である。

私は時間の神に仕える信徒である。
仕事におけるプライオリティの2トップは「効率化」「時短」、これに尽きる。
それだけではないんだよ、という仕事のできる諸氏の呆れ声が聞こえてきそうだけど、少なくとも今まで「それだけではない」他のプライオリティを納得させてもらえるロジックに出会ったことはないので我が信念は揺るがない。

近年やっと働き方改革やら残業低減、という動きが出てきて、うちの職場でも何やらプロジェクトチームなんてものが生まれたらしいが、このチームが一体何してるんだろうと覗いてみると、セクション全体の超過勤務の平均時間を「超過勤務して」算出していたのでくくっと乾いた笑いが出た。

駄目ですよ。
「改革」には既存概念を覆す、そしてコペルニクス的転回を齎すトリックスター的アイデア、そしてパーソナリティが必要なんです。
例えば私みたいなね。
(言うねえこのひきこもり)

でも勿論彼らはそんな「痛みを伴う」改革など想定もせず、ただただ現状をキープしたまま小手先レヴェルの技を編み出すばかりだし(しかも残業して、だ)、そんな彼らがしがないトリックスターじゃなかった変わり者の冴えない職員の私の言うことなんて聞く訳も無いし、そもそも私がひきこもりだわやる気はないわで提言なんざ全くする気はないしで、まあ従前通りの平和な日々が続いていた訳である。

そこにドンガラの御一新、じゃないコロナ禍がやってきた。

(この「ドンガラの御一新」という言葉、先の太平洋戦争の敗戦を指すのだが、試しに検索してみると用例が一つくらいしか出てこず動揺している。
確か第三の新人あたりの戦後小説ではよく目にしたと思うのだが…
まあよい。
ここで敢えて私が「戦争」に関するタームを使ったのかについては後述したい)

この職場では到底テレワークなど無理だろう。
そういう思い込みを、この禍いは粉々にした。
無理じゃねえんだ、やるんだよ。
そのお上(内閣府)の鶴の一声で状況は一気に変わった。

Outlook365の活用。
Termsでの情報共有。
それだけで、少なくとも私の仕事は8割方片付く。
オンライン会議だって、Blackboardでとんとん拍子に進んだ。
やっぱり顔を付き合わせないとねえ、という嘆きも耳にしたが、そういう旧弊は廃れゆくのみなのだ。
ほら三密三密。
いけませんよ。

今までのnoteをご覧の方におかれましては、私はさぞかし鬱々としているに違いない、と思っている向きもおられたかもしれない。
確かに日々のニュースで報じられる悲惨な現実には毎日心を暗くさせられている。
しかし、こと仕事、特にテレワークにおいては正直極楽だよな、こりゃ絶対後戻りしたくないよなと思っている。
(確かに時々キレ散らかしてはいるが、あれは純粋に上司氏がボンクラでスズムシなだけなのでプラットフォームに関しては何の不満もない)
そしてそう思っているのはきっと、ひきこもりでアウトサイダーでマイノリティである私だけではないと思うのだ。
多分。

しかしここまでの改革を齎すに至ったものは業務改革チームでも働き方改革でもなく、近年稀に見るウイルスという大禍だったということに人間社会のソリッドさを感じるし、またのっぴきならなさを感じる。
やはりここまでの強制的圧力が掛からないと変わることはできないのだ、我々は。

少し話は変わるが、このコロナ禍において戦争のメタファーを使うな、というご意見を目にしたことがある。
曰く、我々人類は今こそ連帯すべき時なのに、分断を促す戦争というメタファーは例えば中国とアメリカの啀み合い、そして感染者に対する敵対心を促進するからいけない、ということらしい。

勿論、この比喩に忌避感を持たれる方はおられようしそれを否定する気は毛頭ないのだが、その「倫理観」を善きものとして押し付けようという言説には断固として反対する。
何故なら、私は現状を戦時中と捉え、その心情で行動しようと思っているからだ。
まず、先の分断を図るというロジックは決して自明なものではない。
このシチュエーションで戦争というメタファーを使う場合、敵は明らかにウイルスであり、それは寧ろ人類が一致団結してこの共通の敵と戦うという機運を鼓舞するものともなり得る。
正直この考えにさほど固執するものではないが、少なくとも「明らかに」分断を促すという主張には納得できない。

では、私が何故今の事態を戦争に準えるのかというと、ここまで平等且つ苛烈に広く人間社会に襲いかかり、人の心や行動を一変させた事象を普遍的且つ適切に説明できるメタファーを他に思いつかないからだ。
今の人類は1918年に蔓延したスペイン風邪の記憶を(文献以外に)持たない。
エボラ、SARS、MERS、エイズといった病の流行も大半の人類にとっては全くの他人事だった。
だからこれらの比喩を使っても今回の状況には「ぴんとこない」。
少なくとも私はそうだ。

じゃあお前には先の大戦の記憶があるのか、といえば勿論ない。
しかし、「戦争を知らない子供達」といえども、例えば祖父母の経験であるとか、(時として過剰とも思えた)戦後教育であるとかで色濃く国民的な記憶としてインプリンティングされている筈だ。
されてません?
私はされてます。
学級文庫にあった『はだしのゲン』怖くなかったですか?

長くなった。
つまり何を言いたいかといえば、私は恐らく先の大戦で明日はどうなるのだろうと怯えつつ、こののっぴきならない世の中がひっくり返って、全てが終わった暁にはちょっとは自分も生きやすくなるんじゃないか、という淡い期待を抱いていたであろう当時のアウトサイダー(非実在)のような気持ちなのだ。
乱世の奸雄、なんていうほど偉いものじゃない。
ソリッドな社会構成が崩れてニッチが現れ、芽吹くスペースが広がるんじゃないかな、と願う哀れな不適合分子なのだ。

勿論これは何度も弱者が夢見てきた儚く、ステロタイプな幻である。
実際戦争が起こると、大抵の弱者はひとたまりもなく薙ぎ倒されていく。
それでも、やはり淡い夢を抱くのだ。
この大雨が止み大波が退いたあと、一新された世界は我々にとって少しでも住みよいものになってはいないか。

それは、平時におけるマジョリティ「だった」集団が単に己の支配下にあったアヴァンコロナ(コロナ以前)の秩序に戻そうとはせず、この禍を機に新しく「発見」された倫理やパースペクティヴをいかに正当に認識し評価するか、そしてマイノリティ(ひきこもり/アウトサイダー)「だった」集団がいかにそれらを上手くプレゼンできるかにかかっているような気がする。
(見ようによっては)好機が訪れたのだ。私たちアウトサイダーには。
ポストコロナの時代は、この「戦争」が齎したポジティブな糧を正当に十全に生かせる世となればよいと思う。





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