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エヴァと私と人生
自他共に認める、エヴァ好きである。
私はエヴァに踊らされている。知ってる。
そこには、大きく人生を左右された思考との出会いから、始まる。
誰にも理解されなかった中学2年
誰かに必要とされたい。
自分とは何か。
辛い、苦しい。
自問自答する日々。
そんな中、偶然つけたTVで始まったのが「新世紀エヴァンゲリオン」である。
その頃の私は、頭が悪く、塾通いだった。
通知表にはアヒルさんと旗が羅列されていた。体育と美術だけが5だった。極端かよ。
エヴァを見ると、遅刻確定に近いにも関わらず、予告ギリギリまで見て、自転車で塾まですっ飛ばして走っていた。
親は仕事でおらず、冷えたご飯をTVを見ながら掻き込んでいたのを覚えている。当時、我が家には録画なんて無かった。見逃しでもしたら、一大事だった、少なくとも、私にとって。
親はあの頃の私を知らない。エヴァに熱烈に入れ込んでいた私を。
今は、公言しているので、遂に父は今回の劇場版4部作の予習を映画館で済ませてしまった(笑)
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当時、主人公と同じ年齢。
私はただ、後半に向けての心理描写を見続けていた時。「自分の考えている事は、自分だけが悩んでいる事ではないのか?」という事に気付いたのであった。
何を言ってるか解らないかもしれないが、私も何を考えていたのか解らない(笑)当時、内容が議論されていたこと等、どうでもよかった。
ただ、はっきりと覚えてる。これは、私の思考を可視化したアニメだ、と。
兎に角、びっくりした。自分だけが悩んでいるのだと思った。自分だけではない、という事に気付いた。
TV版最終話。
シンジが、エヴァのパイロットではない自分の世界を垣間見る話。
そこに私は、当時周りの顔色ばかり伺って生きていた自分を重ねた。主語を変えて、見ていたのである。
私の二次元や創作の見方は、主語を現実の自分と重ねて、其処から視界が開ける感覚を味わう感覚が、強烈な体験として残っているからだ。その始まりが、エヴァだった。
「今の僕が僕そのものではない 色んな僕自身がありえるんだ。そうだ エヴァのパイロットではない僕もありえるんだ!」
こうだ、今ここで大人の顔色を伺わないでいる私も存在してもいいんだ。
「そう思えば この現実世界だって 決して悪いもんじゃないわ」
「現実世界は悪くないかもしれない でも自分は嫌いだ」
世界は少し柔らかく見えるかもしれない。
けれども私は、強烈に自分が大嫌いだ。それは、たくさんの体験の上で成り立っていた私の土台のようなものだ。
其れ自体を否定することは、困難に近かった。
けれど、次の言葉で、自分自身になにかが刺さったのを鮮明に覚えている。
「現実を悪く嫌だと捉えているのは キミの心だ」
「現実を真実に置き換えている キミの心さ」
「現実を見る角度 置き換える場所 これらが少し違うだけで 心の中は大きく変わるわ」
「真実は 人の数だけ存在する」
「だが キミの真実は一つだ 狭量な世界観で作られ 自分を守るために変更された情報 歪められた真実さ」
“真実”についての話になったときに。真実はどこにもなくて、自分の中にしか無い。しかし、それすら、自分自身が都合の良いように歪めているものなのか、と。けれど、歪めることの何が悪い。
それは、私にとっての処世術だ。
だってそうしなければ、世界は憎むべき存在だらけだ。憎みたくなかった、憎むなら自分だけを憎み、自分だけを嫌い、自分だけを、殺したかった。自分は“死なねばならない存在”から“自分は生きても良い存在なのかもしれない”なんて思うことは、傲りだ。
其処に、気付いてはいけなかったのに。ほんの一瞬、気付いてしまった。エヴァは救いでもあったが、傷でもあった。
「晴れの日は気分良く」
「雨の日は憂鬱」
「・・・と教えられたら そう思い込んでしまう」
「雨の日だって 楽しいことはあるのに」
「受け取り方一つで まるで別物になってしまう脆弱なものだ 人の中の真実とはな」
この言葉は、今でもずっと覚えている。
物事の捉え方を変えるだけで、沢山の情報が溢れているんだと、気付かされた。
「でも・・・みんな僕が嫌いじゃないのかな・・・」
「あんたバカァ!? あんたが一人で そう思い込んでいるだけじゃないの!」
「でも・・・僕は僕が嫌いなんだ」
「自分が嫌いな人は 他人を好きに・・・信頼するようになれないわ」
「僕は卑怯で・・・臆病で・・・ずるくて・・・弱虫で・・・」
「自分が分かれば 優しくできるでしょう?」
この後、シンジはある意味覚醒して、おめでとうの嵐が降り注ぐのだが(苦笑)
こうして見ていて。
気付かされるのは、“自分の中”に在る“他者の存在”。
それは、本物の“他者”ではない。
あくまで“自分の中にいる他者”である。自分が都合よく書き換え認識している、存在。
「みんな僕が嫌いじゃないのかな」に対し、アスカが「あんたが一人で そう思い込んでいるだけじゃないの!」と言っている。
一人で孤立している世界観での発言は、当時の私、そのものであった。
勿論、好かれてるわけないなんて無かったのだが、そうではないかもしれないと云う可能性の提示をされたのは、よく覚えている。
“自分の中の他者”と、“他者”は=ではない。
“他者の中の自分”と、“自分”も=ではない。
あのひ舎さんは可哀想な人なのだ、という、決めつけは。
救われたこともあったが、大半は私の進みを阻むものが多かった。“可哀想”だから、その場所に居なくてはいけなくて。進もうとすると、進んではいけないと決めつけられて来た。
皆、私を見ていたのだろうかと、今でもぼんやりと思う。
私の路は私が決める。
シンちゃんが、自分で決めた、旧劇場版のように。
敢えて書いておきたいが。
モノを見てどう感じるかは、受け手の問題で。創り手の話は、また別である。
当時、一次元コンテンツとは。画面の向こう側には、誰かがいる、と気付いた瞬間でもあった。創り手にも思考があり、同じ人間であるという事(当たり前なのだが(苦笑))
やがて、庵野監督に辿り着く。そして、思考を知ろうと雑誌を買い漁る私の姿があった。
元々、人の思考に興味があった。私はずっとぼっちで、今も似たようなものだが、色んな人が何を考えているのかに、興味がある。
大人になって、あの当時結構議論されていたことなんかも知る。賛否両論が酷かったこと、庵野監督そのままだった事。
それでも。
そんなことよりも。
アニメを通して、共感を知り。
少なくとも私は、救われたという事実だけは、変わらない。
だって、独りじゃないと、あの時感じたのだ。間違いなく。
進路
自分の未来を決めなければいけなかった。
中学生2年でだ。14歳でだ。
ずっと、周りが羨ましかった。
「看護婦」「ケーキ屋さん」「漫画家」「保育園の先生」「教師」
名前のある職種に向かって歩き続ける、周りが。
進路を決めるときに、なんでこんなふわふわした状態で、未来を見なければならないのか、納得が行かなかった。
いや、解らないからこその、そう思うことで、逃げていたのだと思う。
ひとつ。言い訳をするのであれば。
自分にとっての進路は「絶対に」「失敗してはいけない」という思考が私を支配していた。故に、怖かったのだと思う。「今」「この瞬間」「なう」「決める」という事に。
そんな時に、エヴァに出会って知った。
タイポグラフィである。
タイトルロゴとか、そういうやつ。あの、文字だけのやつ。
凄く、格好いいと思った。
アニメーターとか、ストーリーとか、イラストとか、もっとあっただろう。でも私は、あのタイトルロゴ(◯話とかに使われるやつ)に全部持っていかれた。
将来、文字を使った仕事をしたいと思った。
美しいと思った。
その時、自分の進路が決まった。
それだけ?
それだけ、だ。
アニメで?
アニメで、だ。
私は、美術関連に進みたくない理由が、頑なにあった。
両親である。
二人が美術関連の仕事をしているので、小さな頃から「お母さんと同じで、絵を描くの?」と何度聞かれたかわからない。兎に角それが嫌でしかたがなかった。
美術以外の事を探していたのかもしれない、必死に。何でも良かった。両親と違うことがしたかった。“同じ”と言われることが兎に角嫌で嫌で嫌で嫌で仕方なかった。
しかし、出会って仕舞ったものは仕方ない。
なりたいと思ったんだから、仕方ない。
その後、美術高校には、無事不合格。
何をとち狂ったのか、普通科の進学コースに進み、自ら首を絞める。お前に行ける大学など無いと見放され、卒業できないとまで言われる程、私は問題児だった。だって勉強本当にダメだったんだ…赤点の半分が私の赤点だった。めっちゃ怒られ続けたけども(笑)
それはまた…別のオハナシ。
大学は、美術大学までたどり着いた。
それが、今に活きてるかは解らない。でも、エヴァで導かれた路だって云う事は、解ってる。
右も左も解らず。
誰も思考の話をしてくれなかった。
そんな大人は、周りにいなかった。
そもそも人は、居なかった。
友達なんて、居なかったから。
そんな時。ちょこんと、私の隣に座ってくれたのは。
シンジくんであり、レイちゃんであり、アスカだった。
人との出会いは大切だというが。
人以外の媒体を介して、人と出会うことが可能なのだと知った。
そして、私はずっと、救われ続けている。
エヴァンゲリオンは、わたしの青春の全てである。
誇張表現でもなんでもない。
思考や、ストーリーも気になるが。それよりも、この壮大な風呂敷がどう包まれるのかを、生きてる間に見届けられる事に、感謝である。
因みに。
ストーリーがどうでもいいわけでもないので。考察もめちゃくちゃする。それも楽しい。まぁ、話す人は居ませんけど!!(笑)一人で自問自答だけでも、十分楽しい。とても、楽しいんだ…
(2021.1.11加筆)
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