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自分『らしさ』とは

『私らしさ』と、『あのひ舎』らしさは違うのか?

けれど何処かで通じるものがあると思うのは、自分が表現したいことは、私らしさの一部であるからだと考える。

写真を撮る私は、間違いなく私らしいと胸を張れる。何故かはわからないけど、自分が良いなと思った写真を他者が『貴方らしいね』と言ってくれる事が素直に受け止められて、尚且つ自分自身も其処に『自分』を感じる事が出来て、写真の中には私が存在している。

そういう訳で、写真だけでは今でもこれからも自分を表現していきたいし、したいと思っている。その欲は、強い。


さて、今回の問題。

アクセサリーで、私というのは何処に居るのか、と云う問題。

私らしいアクセサリー、と云うのは4年してても恐らく未だ見えていない。それはお洒落とは程遠い人生を送った訳では無いつもりだったが、どうもそこそこ“普通”では無かったと、現在進行形で頭を悩ませている。

“女性らしさ”

『らしさ』と云う単語は、褒め言葉でも使えるし、場合によってはそれこそ呪縛にもなる。私はその両方を、沢山で無くとも知っているつもりだ。“女性らしさ”を捨てた時にそれが“自分らしさ”に代わる単語ではないか。(此れは“男性らしさ”などにも当てはまる)少なくともそれでも良いのだと気づいた時の私は、救われたような気持ちになった。そうか、私は私で良いのか。例え、此処に居なくとも、と。何処でだって良いのだ“私”は。

今回求められているのは、ある素材を使ったアクセサリーのデザイン提案。自分の知識や、やってきた足跡を辿っても二番煎じになるし、何というか、まっ平というか、真っ白というか、まな板というか…2日程考え過ごした、今日になって、気づいた事がある。

「嗚呼、書いたデザイン画には全部“私”が居ないんだ」

もう、其処に気づいてしまったのだから大変だ。締め切りは後一週間程。時間は無い。いやもう全然無い。今週は撮影の仕事もある、何なら紅葉も撮ってない、週末はオーケストラ。明けたら締め切り。何この地獄。いや、最後は癒しなんでどうしようもないんだけども。

出来る事は幾つかある。先ずは手を動かす。頭に描いているものは兎に角書き出す。動くしかない一方で、どうしても避けられない問題がある。


もう一度、自分に潜る作業が待っている。


“私”を乗せるのは、強制的にその人を“私”にするんじゃない。その人にとっての“あのひ”が乗せられるようなモノ………

そうか。それが、私らしさで、あのひ舎らしさかもしれない。

こういう、困った時には実は何も考えずPCに向かって文字を羅列する方が自分にとって有益だったりする。此れは、昔からの癖だ。現代は見やすく、見てくれる人へ向けて読みやすく、なんて云うのが普通なんだろうが、昔からこの電子の海に文字を書き連ねてきた自分には、少し窮屈だから。此処でも、変わらず文字を羅列して行くんだと思う。ご容赦願いたい。

デザインは。クライアントに言われた通りにすれば良い場合と、丸投げされる場合がある。何故か私は後者の話を多く頂き、頭を抱える事が多い。恐らく投げる側は何も期待していないことを私は経験上知っている。“知っている”のだ。今回だって、きっと落胆されるだろう。だって自分でも出来るとは正直思えないし、思っていない。此れは、人によるかもしれないが、ネガティブスタートかポジティブスタートかで思考は変わる。けれど結果が変わる、というのとは=ではないと考える。

私はもともとネガティブ思考である。期待して、落ち込むのが怖いからだ。其れは成功体験の少なさが起因になっていると分析している。そもそも人生自体に期待が出来ていない段階で、捨てている。期待で腹は膨れないし心は満たされないし痛い事がなくなる訳ではない。

だから、自分なんかに声がかかった事を先ずは有り難く思う。そんでやってみる。多分今回も痛い事にあるかもしれない。余談だが、期待が良い意味で裏切られる事は有難くもあった。

痛い目に遭うかも知れなくても、挑戦することだけは諦めちゃいけない、と云うのは。遺伝子レベルで刻まれている気がする。其れがカメラでもあるからだ。あれだって挑戦の連続の成り立ちで、今のカメラが手元に在る訳である。

好きなアニメや漫画やバンド。YouTuberにVtuberを見ていつだって勇気を貰っている。前者は作品だけど、近年はその向こう側に私のように人がいることを感じる事が出来るようになって、余計に思う事が多い。

挑戦を、辞めてはいけない。

其れは、生きる事と同じかもれない。人生を豊かにしたければ、挑戦を辞めてはいけない。でも其処から逃げたくなる事なんて幾らでもある。そいう時に、自分の“好き”に縋る。私は主にゲームやアニメに縋る事が多い。安心を追体験する事で心を回復させる。だって挑戦はしなきゃいけない確定事項なのだ。最小限“生きる事”からは逃げられない。

相変わらず話が迷子だな。

でも、このあっちこっち行く思考が一番“私らしく”生き生きしていると思う。ただ、こっちにリソースを割きすぎると、現実でご飯が食べられなくなる。此れは思考的には自己管理出来ているので、一旦由とする。気づいた時に何かつまめれば其れで良い。無理は良くない。吐くから。其れは、勿体無い。そう云うのはもう、良い。疲れたから。

『私』と『あのひ舎』と『ちょっと何か作れる人』は全部イコールである必要はない。けれど私は、何がしたかったのだろう。名前や肩書きに拘ってる訳ではない筈なのだ。でも何かしたかったから、表に出るようになって“表現”をするようになったんじゃないか。

本当は解ってる。

何で、表に出たかったのか。

言葉だけではなく、写真で表現する事が始まりだった。写真と言葉からが始まりだった。持ち歩いて欲しかった、記憶を。閉じ込めるのではなく、おこがましくも、私の作品でネガティブもポジティブへ。背負うのではなく、一緒に歩いて欲しいと思った。其れが『あのひ舎』の意味だ。

あのひ見た空。花。風景。色。全部其れらは過去かもしれないけど、全部全部今の“私(貴方)”を創る上で、無くてはならなかったモノ達だっただろうし、恐らく今後の先を助けてくれる“かも”しれない。

これらは全部、私の体験から来る、思考である。

私には未だ一緒に歩けない過去がある。覚えていない過去、背負っているのと担いでいる感覚。でも此れは全部選択の結果の現在だと、自覚はしている。其れでも、余りにも寂しいじゃないか…

作品は、自分を昇華させたい為の手段の一つで。誰かが喜ぶ為にとか、笑う為にとか。そう云うのは詭弁だ。結局は、自己満足の延長に制作があるんだなぁと苦笑い。“知って居る事”を文章化するのは、恥ずかしいし惨めである。自己満足の延長で作品をお迎え頂けているなんて、申し訳なさも大きい。

でも。

こんな私の作品でも好きでいて下さったり、見て下さる方が居るから、やって来られたんだと思う。申し訳ないと同時に、感謝の気持ちも沢山である。有難うございます。


ゴリゴリと文章を書くと、思考がブワーってなる。良し悪しは時間が経って後から波のように押し寄せる。これが良いか悪いか知らない。

作品とは何の関係ないかも知れないけれど、結局此処まで掘り下げて作品に向かい合うのとそうでないのとでは、違う気がする。

“可愛い”が解らない。“愛”もっと解らない。致命的である。非常に不味い。

でもきっと。私の解釈した“可愛い”“愛”“女性向け”が出せると良いな、と思いながら。ここから次は、手を動かそうと思う。

求められているモノが、食い違う事がある。其れが他者と何かを創ると云う事だ。そう云う時は仕方ない。ただし、自分が同意しかねる“仕事”として何かを請け負う時は“仕事”として割り切っている。たまに其処にこっそり“私”を載せてはいるが。ダメなときはダメなのだ。無で仕事を終える時もある。そう云うもんだ、社会は。

今の所お金の発生もなければ本格的な依頼ではない。だから好き放題したい、と云うのが本音なんだろう。安牌を狙うなら、其れぽいカワイイを書けばいい。其れが出来なくて唸って居るんだから。私の、出来る、私だけの何かが出て来ると良いなと、ほんの少し、期待をする。


がんばるぞぉー。おー。






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