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11月振り返り

11月のハイライトはほぼ引っ越し関連で、時間と精神を消耗した。3年ぶりの引っ越しで、特に差し迫った理由はなかったのだけど夏の暑い時期に引っ越すのはいやだし、かといって春先までの熾烈な引っ越し競争に勝てる自信もなかったので、消去法的に今ということになり10月頃から物件を探し始め、週末はほぼ内見していた。おかげでやっと新居が決まり、いまは絶賛新居用の家具の新調と、インフラ関連の手配に時間を費やしている。前回の引っ越しでそろえた家具類があまり気に入らず3年のサイクルでかなり買い替えることになってしまったので(引っ越し初日に間に合わせるために諸々の手順をとばした結果の自業自得である)今回はかなり慎重に進めている、せいで時間がかかり神経がすり減っている。内見で撮った何枚かの写真と間取り図を睨みながら、やっとのことでラグの色を決めた。先はまだずいぶん長い。

11月後半、久しぶりに風邪をひいた。数日の風邪だったけれど熱が出たりして健康であることの大切さを身に染みて感じた。風邪をひいてみて思ったのは、コロナ禍以降、体調不良の状態で人と会わないということが割と徹底されていて、発熱の一週間以内に会った人にはその旨を連絡する(ことで相手も自分の体調の変化に気づきやすくなったり、不要な外出を控えたりできる)みたいなスキームが構築されていて、これは良い変化だとおもった。体調がわるいときには当たり前に休むことができる社会であることを望んでやまない。

ジャニーズ関連は、11月は松村北斗さんの芝居を観たくて「恋なんて本気でやってどうするの」「レッドアイズ」「すずめの戸締り」を観た。恋マジ、あまりにも狂気のドラマで一気見した。ラストが、熱でうなされているときに見る夢みたいだった。

恋マジの感想。脚本の不安定さというか、解像度の高いところの心の抉り具合と、解像度低い部分の「は…?」ってところの落差がすごかった。前半は純の、後半は柊磨の物語なわけだけれど、前半、純の物語における柊磨がわりと装置的で「純に何かを与える役割を持つクールでミステリアスなイケメン」に徹していた分、後半、母親登場以降(柊磨の物語になってから)は彼の、優しいけどとらえどころのない部分や、客との距離感がバグっているのは「母親からの小さな恋人扱い」というあまりにも残酷すぎる仕打ちが原因であることが判明するというしかけになっていて(しかもその残酷さはエンディングまで一切救済されることはなかった)、さすがラストフレンズの脚本家…と思わせるグロテスクさだった。その仕掛けを成功させたのはひとえに斉藤由貴の怪演であり、もちろん本編中にそのような明言はなされないのだけれど、あのふたりの、ふたりきりになったときの空気感の異様さと、それを柊磨がごく当然のこととして受け入れているというあきらかに母と息子を逸脱した関係もかなり露骨に表現されていて、このドラマほんとに恋愛ドラマだったか…?どうしたらこんな地獄を恋愛ドラマのていで描けるんだ。母親に支配されている柊磨が、女の子たちに流されて求められてそれに応えているようで応えないあのムーブも、優しくいることで女からも恋愛からも逃避し続けているのも、あまりにも柊磨の地獄が煮詰まりすぎていて救いようがなくないですか…?前半ではただのミステリアスイケメンだった柊磨の地獄の解像度があがって、母親登場以降何してもしんどくてしんどさのギアの入り方がえげつなくてふっとばされちゃった。だって、純が恋っていいなと感じるきっかけになった柊磨のやさしさの全部が、柊磨が「女」といういきものから自分を守るために会得したものだっていうの、あまりにもねじれていて救いがない。母親を店に出すか出さないかの話をしたときに純が「お店の品格にもかかわるから」と言ったときの「え、ごめん、何品格って」の、あの瞬間の柊磨はどう考えても純より母親を優先していて、それも多分まったく無意識で選択の意識もなく、それがどうしようもなく恐ろしいよ。一方の純はというと、最終回の純の「これからはそっちが苦しんで」という告白もあまりにも悲しすぎない…?恋愛なんて苦しくて辛くて嫌だって思ってた人が恋愛を受容するなかで「相手にも苦しんでほしい」というの、ハッピーエンドというにはあまりにもしんどすぎる。あと、大津も解像度高いなあとおもった。すごいやさしくて理解しあってて友達としてだったら最高だけどパートナーになったら無意識のモラハラで死ぬ。純の家に来た時の「そろそろお茶が欲しいなあ」のくだり、解像度高すぎてあれだけで大津というキャラクターがどういう役割を持ってここにいるのかがわかりすぎる、秀逸な脚本だった。大津の転勤終わったら仕事辞めて九州引っ越して義実家同居ルートだぞ!?
北斗くんの芝居は静かなのに燃えていて哀れでうつくしく繊細だったよ。ふとした瞬間の間合いの取り方がやわらかく空気をかき混ぜるような印象の芝居をみた。

しらたまちゃん(ひな子)が最後までぽよよってしててかわいかった。中川のキャラクターがめちゃくちゃすぎたのと、最後の最後でAロマのくだりがあったけどあれちゃんと専門家の監修入ってますか?かなり危うい表現になってしまっていたと思う。本当にネイルサロンのシーン全てが浮世離れしすぎていて信じられないくらいノイズだった(ノイズすぎて書くの忘れてたけど最後の件は言及せざるを得ないでしょう…ということで追加しました)

松村北斗さんの芝居を少し観た所感。彼って、台詞と間合いで魅せてくる役者なんだということ。視線で勝負する役者も好きだけれど、このほんの一言がキラーワードになる、しかもそれが決め台詞ではないって、すごいひとだ。もう少しいろんな作品をみたら、また松村北斗さんについてはどこかにまとめたい。

風邪で寝込んでいたとき、ほかにやれることもなくてYoutubeを観ていた流れで、SixTONESのバラエティ回を3年分くらい観た。この話も長くなりそうなので別でまとめる。備忘録として記載。

秋頃からTLでちらほら「推し活」の功罪についてのはなしが出るが、たいてい批判的な切り口で語られている。私自身、この数か月を振り返って、いわゆる推し活と呼ばれる趣味について考えたけれど、結局はほかの何とも変わらず、選択と決断の繰り返しでしかないのだと思う。だからこそ、推し活の功罪などというものは、やはり他者ではなく自分自身に対してのみ有効であるというのがいったんの結論となった。私自身は、インターネット上のふるまいとしての推し活については、都度個別具体的に判断していくしかないという前提のもと、社会を構成する大人として未成年からの視線を意識する瞬間がたしかにある。当たり前にできたりできなかったりするそれらの思考や行動は、けれどあくまでも自分自身の精神の安寧のためであり、現時点ではそれ以外の何でもないことは記しておくほうが健全だろう。そのうえで、また、ひとりの人間として、女にも享楽的に破滅する権利があるのだということと、同時に、破滅しない権利もまた同質量で存在するべきだということをおもう。この件については、私はどうしたって「女性カルチャー」への非対称性を抜きには語れないのだ。もちろん、推し活というワードを取り巻く様々な事象は間違いなく存在する。良いことも悪いことも。そしてこの瞬間社会にあふれた部分はバックラッシュ的に悪い部分であることも事実なのだけれど、それは根本的には他のどんな趣味も同様であり(特性というものはもちろんあるし、たとえばアイドル消費という趣味において懸念される事柄がないとはいえないというのは当然の前提である)、これまで無批判に、なんなら歓迎すらされてきた男性カルチャーの消費行動を前提にすれば、こと推し活のみに特別な罪を見つけようとすること自体がなんらかのバイアスによっていないか、よくよくチェックする必要があるのではないだろうか。

そしてそれら個人の感情や行動とは別の問題として、社会のありよう、特に企業として資本主義以外の価値観を持つということの意義、消費者と健全な立場で行われる企業活動への希望については、推し活当事者としてというより、社会におけるひとりの消費者としてこれからも考えていく。ここまで言葉を尽くして書いたけれど、結局はそれこそ程度の問題に収束するし、その程度というものを逸脱している/いないのジャッジは極めて個人的な事情に拘束されるだろう。

11月は精神の調子が悪かった。12月も引き続き忙しい。


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