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外野

※自死についての言及があります。ご自身の判断で閲覧ください。


私が自分の特権性を行使し、考えることをやめて過ごしている間にひとりの方が亡くなってしまった。ジャニー喜多川氏の性被害を訴えた方だったそうで、ニュースをきいたとき、反射的に「何もしなかった私という存在が誰かを不可逆な選択へ連れて行ってしまったのだ」とおもった。もちろん、それが行き過ぎた思考であることは誰に指摘されるでもなく理解している。あまりにも当事者であろうとしすぎることも、部外者としてふるまうことも、多分、正解ではないのだろう。社会の一員として向き合うことだけが残された道のようにおもう。

社会の一員として、この問題に関心をもつ人間として考えてきたことをふりかえってみると、私は常に旧ジャニーズ事務所に誠意のある対応をしてほしいと願い続けてきたし、その気持ちは今も一切変わるところがない。けれどその感情の源泉は何であったかということを突き詰めるのであれば、ただ私のおもちゃをとりあげないでほしいという稚拙な欲望でしかなかったのではないか。私自身の思想や信条に基づいた誠実さを望むのは、私の大好きなものでありつづけてほしいという要求だ。暗澹たる気持ち。これは、愛したものに、永遠に愛するに足るものであってほしいという、社会正義などではない極めて個人的な欲望に過ぎない。

それでも、私は今でも旧ジャニーズ事務所にはできる限りの誠実な対応をしてほしいと願っている。誰の尊厳も踏みにじらないでほしい。誰かの尊厳を踏みにじることを逆転と呼ばないでほしい。いまも、歌を聴けば素敵だとおもう。顔を見ればかっこいいとおもう。でも心のどこかで誰かの死のことを考えずにはいられない。知らなかったときと同じにはならない。どっちも捨てられないし、割り切れないよ。

名前も顔も知らない、直接的な関係を持たない私ですらニュースを聞いてからずっと、どこか現実ではないような感覚が足もとにまとわりついて気持ちが暗い。より近しい場所にいる人たちのことをおもうとことばがない。

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