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夜明けのすべて

『夜明けのすべて』
2024年マイベストに必ず入る映画。オールタイムベストかもしれない。ほんとうにいろんな人に観てほしい。なぜなら、こんなにも丁寧な物語がこの世界にはあるってことを知ってほしいから。

それぞれPMSとパニック障害を抱える人たちが主役として登場し彼らの心の交流を描いた作品でありながら、彼らを決して悲劇として消費せず、けれど同時に軽んじず、ただそこに「ある」ものとして描かれていることが誠実だった。わかりやすい悪役もいないし、劇的な物語の波もないなかで、けれど彼らがただそこに生活をしているということが三宅監督の夜と光の演出に閉じ込められていて、これが「救い」の物語であることを映像として感じられた。私がそれを強く感じたのは、山添くんと藤沢さんが歩道橋から星を指差すシーンと、終盤、山添くんが自転車を漕ぐシーン。それらのシーンのうつくしさというのは私のとてもよく知るもので、それはたとえば雨上がりの朝の通勤路のきらめきだったり、日曜に早起きして買いに行くパン屋までの道のりだったり、その途中のコインランドリーのにおいだったり、そういう私の生活にある私が愛しているうつくしさと同種のものが、山添くんたちの生活のなかにもあるのだということが、言葉ではなく、自転車を漕ぐということ、歩道橋で星の話をするということで表現されていて、そういうところに「映画になった意味」を感じられてとてもよかった。

山添くんと藤沢さんについて。ふたりの男女が織りなす物語でありながら、この物語は(監督インタビューなどでも公言されている通り)男女のふたりを恋愛という形式ではなく、当たり前にこの世にある、けれどあまりにもこれまで透明だった、恋愛でもなければ相棒でもない関係を描いている。けれど、『夜明けのすべて』は物語として恋愛を否定しない。それは恋愛のニュアンスを残す、想像の余地を孕ませるという意味では全くなく(そういう意味ではかなり丁寧に彼らの関係が恋愛ではないことが理解できる絵作りがされていたと思う)恋愛の文脈を言葉(台詞)で否定しないまま、けれど明確に恋愛ではない、もっというと何ら「特別ではない」ままで「助けられることがある」という世界をみせてもらった。山添くんも藤沢さんも、互いに出会うことで夜明けをみた瞬間がきっと確かにあって、けれどだからといって「何者か同士」になることはない。彼らが互いに出会えたことは彼らの人生においてとても意味のあることだったけれど、特別な関係にならなくても助けられることがあるという物語だったからこそ、この物語はをfor meだと思うことができたのだと思う。この物語において、助けられるということは、誰かの特別になりうる、好意を向けられるべき善人のたった一度きりの特権ではない。特別な夜明けはうつくしく希望だけれど、夜も夜明けも誰にも平等に何度でもやってくるもので、だからこそ彼らはまた彼らの人生できっと何度もいろんなひとと、うつくしい夜明けをみるのだろう。山添くんと藤沢さんの人生の一部を目撃した人間のひとりとして、彼らにはそうであってほしいと願うし、私の人生にもまた、そういう夜明けがあってほしい。

そういえば、蛇足的だけど、私にはこの物語がわりと相互不理解を前提に描いているのもよかった。互いを認め合ってはいるけど、それは理解したから認め合っているのではなく、ただそこにそうあることを許しあっているだけという関係。山添くんは藤沢さんを通してPMSに興味を持ったけど藤沢さんがどんな生活をしているのかには興味がなく、藤沢さんもまた、山添くんの過去の同僚との距離を詰めない。全てを理解しなくても誰かと助け合うことはできる。それってすごい希望だよ。

最後に。松村北斗さんがどこまで計算して、解釈して山添くんを演じたのかはわかりようもないけれど、でも私は彼の演じる山添くんと出会えて本当によかったと思う。山添くんは、パニック障害を持つ青年で、その病気のせいでいろんな困難を背負っている人だけど、決して悲劇の当事者としてではなく、ふつうの、弱いところも、優しいところも、嫌な部分もある人間として生きていてくれたことが救いだったし、そういう芝居を過不足なく表現していてすごかった。アパートで両足を抱えて震えている時の長い吐息も、発作の時に「すみません」を繰り返すすがたも、散髪の時の独特の笑い方も、私に深く刺さるものがあった。そして、山添くんを演じた松村北斗の芝居が、三宅監督の16ミリフィルムに残る奇跡に感謝したい。


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