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何万光年も先から祈ってる

6月18日は北斗くんの誕生日らしい。友人の誕生日からはじまって、自宅の郵便番号、自分の電話番号に至るまで、羅列に意味を持たない四桁以上の数字を覚えることが苦手な自覚のある私にとって、好きなアイドルの誕生日はこれまでの人生でかなり長い時間、ただの数字の羅列でしかなかった。いろんなアイドルを好きになってきたけれど、アイドルの誕生日が意味を持ったのはここ数年、SNSでの所謂主役不在の誕生日文化に触れてからだと思う。SNSでいろんな人が好きなひとの誕生日におめでとうを言い合ったり、誕生日をきっかけに集まってお祝いをしたり、自分の気持ちに向き合ったりしているすがたをみるのは楽しくて、どことなくうれしさや面映ゆさも感じられる、良い文化だなあとおもった。特にSixTONESのファンコミュニティではブログで気持ちを綴る文化があるようで、それがとても素敵だったので、わたしもせっかくだから、今日という日のために何かを書いてみたい。

noteを書こうかなと思い立ってから、ぼんやりと誕生日にふさわしいことばというものを探してみたけれど、そういうふうに考えると案外なにもでてこなかったりする。普段はX(Twitter)であれだけぺらぺらと訊かれてもいないことをしゃべり続けているのに不思議でしようがない。誕生日に書くのだから、生まれてきてくれてありがとう、ということを書くのが良いような気もするのだけど、一方的とはいえ、出会って一年も経たない相手に贈るには、それはちょっとまだ”できすぎている”ような気がして、あたかもこの出会いを特別に”あつらえたい”ような感じがして、ちょっとだけ気が引けてしまっている。

そういうわけで、仕方がないから、わたしのはなしをしようとおもう。正確にはわたしの生活のなかにいる北斗くんのはなしを。

ブログや、インタビューや、動画の端々から感じられる北斗くんはいつも丁寧に、一生懸命に生きているように見える。そういう生き方は私がとりわけ苦手なことで、できる人をとくべつ尊敬していることでもある。北斗くんが冷たい水ではなくて常温の水を探していたり、現場に野菜をゆでて持って行ったり、漢方を常飲して体調を気にかけていたり、そういう暮らしの丁寧さに自分のリソースをちゃんと割いているところをみるたびに、なんてすごい人なんだ……と尊敬を超えて畏敬の念すら抱く。たとえば動画やブログを通して、私よりずっと不規則かつコントロール不能な外的要因があふれる日々を生きながら、自分を大切にするという途方もない大変さをきちんと引き受けている瞬間を垣間見ることがある。そのたびに、どうしてそんなふうに生きられるのだろうと思う。それと同時に、そういう北斗くんの丁寧さや一生懸命さや、けれどどこかマイペースで、自分をきちんと守ろうとするところがいっとう好きだと、つよく胸を締めつけられる。

そういうふうに好きになったからなのか、北斗くんは私の生活においてこれまで好きになったアイドルの誰とも違う役割を担ってしまった。私は基本的には自分の生活と好きなアイドルを直接結びつけて考えないタイプのオタクなのだけれど、北斗くんだけは、ふとした時に彼のそういう正しく自分を大切にするような生活を想像して、自分を振り返り、ぴんと背筋を伸ばしたくなる瞬間がある。賞味期限の切れた牛乳は飲まないだろうな、とか、遅く帰ってきた日でもメイクも落とさず寝るなんてことはしないだろうなとか、そういうことから、朝が早い日の移動中は窓によりかかって眠ったりするのかな、とか、お風呂あがりに風呂掃除してるっていってたなあとか。もちろん彼の私生活などオタクの私は知るわけもないので、そんなのは全部びっくりするくらい純度100%の想像なんだけれど、こういう、アイドルという職業を背負っていない瞬間のアイドルを想像する、というのがそもそも私の人生ではなかなかないことで、しかも、そういう北斗くんを想像し、そのあとには必ず自分の生活を顧みて、ああ、ちゃんとしたいなあ、と思うのだ。ちなみに私は賞味期限の切れた牛乳も飲むし、遅く帰ってだるい日は着替えもせずソファで気絶するし、風呂掃除がこの世で一番嫌いだ。

どうしてか、北斗くんだけが、私の生活のなかにはいりこんできて、私を”ちゃんとさせよう”とする。これまで、私にとってアイドルというのは、自分の生活とはまったく切り離されたところに存在していて、彼らがどれほどに素晴らしい人間であっても、それが直接的に私や私の生活に影響を及ぼすことはなかった。だって、彼らは私には決してできないことを軽々と成し遂げていくけれど、私だって彼らにはできないこと(株主総会の決算資料を作ったり、事業計画を立てたり、上司の壊したエクセルファイルを修復したり←関数を消すな、バカ)をやっている。ものすごく不遜な言い方だけれど、私は彼らのことを”やるべきことが違う人たち”なのだと思っているふしがある。私が彼らの人生を歩むことはできないけれど、彼らもまた私の人生にとって代わることはできない。そういうスタンスでアイドルのオタクをやってきた自覚がある。なのに北斗くんの存在は私の生活のなかにするりと入り込んできて、こともあろうに「北斗くんはきっと今も一生懸命に生きているんだからさ、私も多少はちゃんとしようかなあ」なんて思わせてくるのだ。ちなみにそう思うことと、行動に移せるかどうかはまったく別の問題で(つまり実際に北斗くんを見習って体調の為にゆでた野菜を職場にもっていったことはない)、私にとってはアイドルという存在がそういうふうに私自身の生活に作用するということが、もう、とんでもなく特別なことなのだ。だって、アイドルって私のためには生きてはくれないし、私がちゃんとしたところで彼らの人生にはひとつの関係もない。そういう相手への感情として私と彼を「だから」でつなぐというのは、まったくこれまでありえないことだった。ちなみに、この特別さが今これを読んでくれている誰かに伝わっているかどうかはかなり自信がない。

なんでなんだろう。北斗くんの何がそうさせるんだろう。いや、もちろん私が勝手にそう”なって”いるだけなのだけれど、でも、どうして。ここしばらくはずっとそんなことばかり考えていて、そういうことを考えていると、結局思考は流れに流れ、そのうち気づけば北斗くんの好きなところを、とりだして触って、眺めていたりする。そうやってとりだして眺めているうちに、そのなかのいくつかが、私にそういう特別な作用をもたらしているような気がしてきた。だから、ここからは私の好きな北斗くんのはなしをしよう。結局さ、なんだかんだといろいろ言っても、誕生日ってそういうことなんだよね、きっと。

北斗くんの好きなところはたくさんあるけれど、何せまだ出会って一年も経っていない、生まれてきてくれてありがとうも言えないような時間しか過ごしていないから、まだ知らないこともたくさんあって、でもだからこそ、今だから書き留めておきたい”好き”がある。そのうちのひとつであり最大の関心事が、北斗くんの紡ぐ言葉についてかもしれない。

北斗くんの言葉については以前のnoteでも少し触れたけれど、北斗くんって、『アトリエの前で』を引用すれば、言葉の限界を知っていて、でもその限界をいつも超えようとしている人だ。言葉、特に文字というコミュニケーションツールが万能ではないことなんて、北斗くんはもうとうに承知していて、それでも常に諦めないことを選択しているひとだなあと思う。北斗くんは語彙も豊富で、いろんな文章のストックがある人で、北斗くんのトークやテキストはいつもウィットに富んでいる。でも世の中にはそういう特徴を持っている人はたくさんいて、ただの文章の技巧だけでいえば、北斗くんが世界で一番文章の技術がうまいかどうかはわからない(文章の技術を何と定義するのか、という話もあるけれど、言葉のあや程度に受け取ってほしい)じゃあ、北斗くんの文章の、言葉の、何が好きなのかって、北斗くんの言葉は、技巧としての美しさやバラエティに富んだワードチョイスがあるんじゃないところ。彼が伝えたいと思うことのために、それを過不足なく伝えるために懸命に言葉を操ろうとしているところがいっとう好きだ。北斗くんのことばは自己開示を恐れないしなやかさと強さがあって、そういう言葉に触れるたびに、なんだか眩しくて泣きそうになる。いろんな記事やインタビューでも好きな言葉があるので、せっかくだから大好きな言葉からいくつかここに記しておこうと思う。

基本的に一度好きになると長いほう。昔憧れていた人や好きだったものは、今改めて考えても「やっぱり好きだな」って思う。でも現在その人のことを変わらず好きってわけでもないし、好きだったものの新作が登場したからといって、絶対に手に入れたいわけでもない。それはまた、別だったりするので”好き”って難しいですねぇ…。

2024.02.14 GINGER「松村北斗の好きなもの、3つ教えて!」

これは自覚的に好きになって割とすぐに読んだインタビューで、当時、何かを好きになるということに消極的で、好きの気持ちが変わってしまうことが怖かったし寂しかったし嫌だった私にとてもよく響いた一文。これって、インターネットでいうところの「心の宝箱にしまう」というミームとベクトルは同じなんだけど、それをずっと具体的に伝えてくれて、好きなまま、いろんな変化があることを肯定しながらも「好きって難しい」という言葉で締めくくられているところに、北斗くんの温度を感じられる。

僕ね、諦める勇気を持てない人で。一度始めたら達成するまで続けないと気がすまないタイプなんですよ。

 2023.0.20 MORE「夢と美学」

これはマシュマロで教えてもらった、すごくすごく好きな文章。マシュマロの本題はこの後に続く「遠い先に解散があるのはもう一度友達に戻りたいから」だったんだけど、私にはこの一文が深く心に刺さった。インタビューで語られていることは大枠を取ってしまえば「継続は力なり」ということだと思うのだけれど、そういうときに、わかりやすく広く大衆に同じイメージを抱かせることのできるものを選ばない北斗くんの言葉選びは真摯だ。諦める、一度目指したものから手を離すことに「勇気」が必要であることを知っていて、そのうえで、自分はいま「継続」を選んでいるのだということを過不足なく伝えるためには「継続は力なり」ではだめだったのだ。こういう言葉の選びかたって、あまりにも自分の心のやわらかな部分をさらけだしすぎていて、すこしだけ怖くて、読みながら、北斗くんの伝えることへの信頼にこわごわと触れた。

前はね、すっと出てくるほうが間違ってるから、じゃあこっちだってやってたんだけど、東京生活が長くなって同じくらいの馴染みになって、わかんなくなっちゃいました

2024.02.25 北斗學園音声

心のやわらかな部分、といえばこの日の音声ブログはとくべつ好き。訛りのはなしってきわめてプライベートで内面的なことだから、それをこういう表現の仕方で伝えてくれるの、とっても良かった。この時は寝起きの少し語尾の甘ったるさが残る、眠たげな声のニュアンスもあって、幼いころの秘密のはなしをしているような語り口調に、聴いているこちらの心がふにゃふにゃになってしまった。

需要に響くこと、まだみんなの中で目覚めていない需要を目覚めさせるような先導者的なこと、この二つを軸に冷たさも保守的なつまらなさもないものを作っていきたいと思ってます

2-24.04.24 北斗學園

これこそまさに北斗くんの”技巧のための語彙じゃなくて、伝えたいことのために言葉を操ろうとしている”言葉だ。北斗くんのことばを読んでいると、なんでも簡単なことにしていはいけないなと思う。北斗くんをみつめていると、わかりやすく、平易にすることで失われてしまう繊細さが常にあることを意識せざるを得ない。それを取りこぼさないように丁寧に選んだことばが並んでいる北斗くんの文章が好き。言葉遊びじゃない、言葉にも、言葉の向こうにいる人にも誠実であろうとする人の文章。

中学、高校、大学と、どんどん周りの人たちも自分の夢が明確になっていくじゃないですか。で、夢への道筋が鋭くなって、みんなそこを目がけて突き刺すように走っていく。なのに、自分はどこに刺さるかわからないまま、囲われた世界でとにかく前に向かって走っていくみたいな状態。

2024.WINTER T

この文章があまりにも鮮烈で眩暈がした。学生から社会人になる過程のなかで、夢が具体的になっていくさまをこんなにも表現する術を持っていること、もう、素敵を通り越して羨望まである。突き刺すように走っていく、という表現も、対して自分自身を「刺さるかわからない」と置く、友人らとの対比の表現でありながら、自分自身の、アイドルという誰かの心をつかむ職業であるがゆえの「刺さる」のふたつの意味が(どれほどこの言葉が北斗くんの生の言葉かはわからないし、どこまで意図されたものかもわからないけれど)かかっていて、うつくしい文章を読んだ時特有の恍惚感にうっとりしてしまったし、彼の目に映る”夢”というものの鮮烈さに触れたような気がした。

まだ他にもたくさん、それこそこの間のほくがくの「グッドなサマーを上手に迎えに行こうか」も良かったし、以前noteでも触れたラジオでの「最初はちょっと無理して信頼しているうちに実際信頼とかいろんなものがうまれていって」というのも良いことばだったね。『アトリエの前で』のなかにも好きな文章がたくさんあるんだけど、あまりにも多すぎて選べないので、それはまた別のnoteにまとめたい(いうだけはタダ)

北斗くんのことばは、いつも受け取り手の善性を信じている。受け取る私たちが善であると信じて、肯定して、だから心のやわらかな部分をひらいて、開示して、言葉にしてみせてくれる。北斗くんが他人の善性をこんな風に信じることができるのは、彼自身が一生懸命にそうあろうと生きているからだと思う。私は自分がわりと露悪的である自覚があって、とうてい善人とは呼べない人生を歩んでいると落ち込んだりもするけれど、北斗くんがそうやって私(ファン)を善だと信じてくれているなら、私もそういう人間になりたいなあ、と思ったりする。こういう漠然とした欲求を具現化した感情が、前述した「北斗くんはきっと今も一生懸命に生きているんだから、私も多少はちゃんとしようかなあ」にゆるやかに繋がっているのかもしれない。

北斗くんが人間として丁寧に一生懸命に生きて、それがアイドルの松村北斗を通して私の心を揺さぶって、私の心が彼の善性にひきよせられて、彼のまったくあずかり知らないところで、風呂掃除をさぼらなかったり、茹でた野菜を弁当にもっていったり、牛乳の賞味期限に気を遣ったりする(牛乳の賞味期限は完全に私の妄想だけど)。私は北斗くんに「北斗くんのおかげでこんなに人生が良くなりました!」なんてことは伝えるつもりもないけれど、でも、たしかに北斗くんの生き方が、私の背筋をぴんと伸ばしてくれている。何万光年も向こうから降り注ぐ星のひかりみたいに、北斗くんの存在が私の生活のなかでまたたいている。そう思うと、こんなふうに誰かを好きになるというのも、なんだか悪くないような気がしてくる。うん、やっぱり、結構良いかも。

結局、誕生日らしいことはひとつも書けなかった。それでも、彼の歩む一年がどうか幸福で健やかでありますように。彼のやりたいことのすべてが叶う日々でありますようにと、何万光年も先の地上から北斗くんをみあげて祈ってる。北斗くん、誕生日おめでとう。

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