腹落ち

このところ、休養宣言をする、あるいはそれに近しい状態を迎える同年代が本当に多くて他人事に思えない。自分を大事にできなくなるまで追い込まれる状況は、他所から見てても悲しい。

子どもの頃から相対評価が体に馴染みすぎると評価の軸が曖昧になる。そこに言葉だけ独り歩きした多様性が幅を利かせ、数字や順位が絶対的な評価基準だった世代よりも視界はボヤけて靄の中を生きなければならないように思う。(もちろん、人によっては)

相手との微妙な差異の中でしか自分の座標を判断しにくいシステムなのだから、内面から少しずつ腐ってしまうのは当然だし、どこかのタイミングで立ち止まってじっくり考える時間がどうしても必要になる。

いまの社会システムだと、人によっては相手が発した何気ないひとことがきっかけで自分の軸を外に置かざるを得なくなる時もある。
すると、自分の欠けてる(はずではないのにそう思い込んでしまう)部分ばかりに目がいき、相手や自分のポジな部分に目がいきにくくなる。

これらを打破するには、どれだけ時間をかけてでも腹落ちするまで考え抜くことしかないように思う。抽象的だけど、きっとこれしかない。

自分の場合、2〜3年悶々とした時間を過ごしながら、気になった本やまわりの人から得た知見を咀嚼しては喉元までしか理解できずの繰り返しだった。意味を把握できても生活や思考にまで落とし込むまでは何故かできなかった。
そこに転職が功を奏して環境が変わったことで、それまで得た知見が数珠繋ぎになり答え合わせができて一気に視界が開けた。
(ポジでもネガでも、チャンスらしきものを掴んで離さないよう、アンテナだけはしっかりと立てて置いた方がいいなと転職の時に強く感じた)

自分の内面や考え方の癖が今の社会のシステムと悪い意味でマッチしてるから悩んでしまうと腹落ちすると、見えないものに執着する感覚が急速に減っていった。その反転で、周りにいる人たちをこれまで以上に大切に思えるようになる。受け取ることより与える方向に考え方がシフトするようになる。

自分のポジな部分はなにかと聞かれれば、周りには素敵な人だらけで運が良いとハッキリ言える。本当に尊敬できる人しかいない。
10年来の高校の友人たちとは、ここ最近は特に心の距離が縮まって互いを尊重し合えているな〜と勝手ながら感じたりする。
散歩部の皆は、何年経っても受け取るより与えることに矢印が常に向いてる素敵な集団だと感じる。
マーくんは付き合いの関係値やどれだけ裸になって本音で話しても全くブレずフラットに接し続けてくれる。
今の職場からは、仕事をする上で優しさが一番大事なことを社会人生活が慣れてきた中で改めて背中を叩くように教えてもらえた。
血の通った関係こそが、いまの社会システムの中でしなやかに生きるためのポジな対抗手段なんだと思う。
ネガになりがちな人ほど生きることに真剣で肯定的なのかもしれないと思うと、ポジに完全に振り切れた時から最高にクールな人生を送れると思うし、期待したい。

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