兄が亡くなって15年目の変化(2022.11.1追記)

今年度から働く環境がガラリと変わって、ここ1ヶ月半は無条件に疲弊していた。信頼を積み上げるのは相変わらず難しいなと感じつつ、自分が望んだ環境に行けたので決して嫌な疲れではない。

環境といえば話は少し変わるが、僕には3つ上の兄がいたけど、2008年に亡くなっている。理由は自死だ。

亡くなって丸14年が経ち、今年の命日を境に、兄と過ごした年月よりも、兄が亡くなって家族3人として過ごした人生の方が長くなった。
でも、日を追うごとに兄と過ごした日々が失われていくなんてことは全くなかった。それよりも、社会人になってからの数年は、一回り二回りも離れた大人(特に子を持つ方々)と接することで、大人としての視界がどんどん開けて、兄や両親が当時どんな思いだったか鮮明に分かるようになり、たまらなく辛い時期もあった。
中学〜高校生になっても置かれた状況を俯瞰できず、ただ蓋をするしか選択肢がなかった。あの頃から沢山本を読んで先人の知恵を得ていたら違っただろうな。

今さらこんなことを思っても後の祭りだけど、あの時ああしていれば良かった…もっと寄り添ってあげれば良かった…と2019〜2020年辺りは感情の弁が決壊し続けていた。
兄との折り合いは随分前に着いたけど、そういう後悔は今もずっと残り、この先も変わらず思い続けるんだろう。初対面の人に家族構成を聞かれると、未だに次男と答えてしまう。前向きな人は、過去は変えられないから切り替えて前を向こうとか言うけど、中々そうはいかない。

この14年間は本当に恥ずかしい人生だったと思う。卑屈にずる賢くなり、他者の価値を下げて優位に立とうとしたり、格好悪い失敗や遠回りが多く、とても兄に見せられる美しい人生ではない。

そんな人生だったけど、一生付き合い続けていくと思える人たちと幸運にも出会えてこれたなと、昨日実家に帰って兄の仏壇を見てふと感じた。
それは、大学の散歩部だったり、未だに会う高校時代の友人たちだったり、マー君だったり、幼馴染の北尾くんだったり、前職の九州時代の先輩たちだったり。裸になっても尚関わりを断とうとせずに心を通じ合わせて向き合ってくれた人たちだ。何にも代え難いです。

恥ずかしい14年間を過ごしてしまったけど、これからの人生は、血を通わせた人たちにずっと会えるように頑張ったり恩を返したりして、自分も相手に何かを与えていくってことでいいんだと節目を経てようやく思えた。

これからもまた兄を思い出しては落ち込んだりすることもあるけど、原動力がはっきりした分、これまでの14年間よりは頑張れる気がする。
それでも、もう一度だけでいいからまた兄貴に会いたい。一緒に地球防衛軍2をやりたい。

※2022.11.1 追記

深いしんどさの中に気づきがあり、書くか悩んだけどヴィヴィッドな感情を消化不良にしない方が良いと思ったので、書く。

前職でお世話になった先輩の訃報が耳に入った。人身事故らしい。

サラリーマン金太郎のように溌剌とした方で、俺を含め一回り以上離れた若手を積極的に飲みに連れて行ってくれたりと1番面倒をみてくれてた。

面倒見の良さや人あたりの良さが兄とどことなく似ていた。

歳の差を感じさせないフランクな接し方もできれば、ちゃんと兄貴肌もしっかりみせてくれる。

一方、モーレツすぎる面もあって当時の俺は少し苦手だった。

というのも、とある案件でたまたま協働することがあり、取引先と接待飲みをする機会があった。1次会で取引先とスムーズに会合を終えた後、マッハで帰れると思ったら、夜中3時半まで池袋駅近辺の地下にある謎のワインバルに隔離され、限界突破の2次会に付き合わされたからだ。

(当時、兄の件で悪い意味で感情の弁が飛んでいた時期だったこともあり、相当にしんどかった)

会話の内容はおおよそ、昔の苦労話だったり、ご自身のお子さんの話だった。

が、話を聞いてくと、社長秘書時代に激務で体調を崩したらしく、そのせいで出世は遅れたけど、それでも頑張りをみてくれる人がいて、周りに感謝していると2次会の終盤でポロリと話してくれた。

その話を聞いた時、先輩の面倒見の良さの源泉を垣間見た気がしたし、今思い返すと、自分を含めた若手に対して、人を大切にしながらしなやかに生きろよとずっと伝えてくれてたんだと思う。

先輩は一昨年、転職をした。

別れの挨拶をした際、あんまり自分の看板や過去に固執せず伸び伸びやりなと短くメッセージをくれた。自分のプライベートについて話したことはなかったのに、見抜いていたようだ。それが心底嬉しかった。自分も転職して環境を変えようと思わせてくれた大事な一言にもなった。

だからこそ、余計に悲しい。

それでも、先輩の訃報の悲しさばかりに目を向けず、受けた愛情を一日中見つめた結果、人は死んでも終わりではないと悟った。

兄から受けた愛や沢山の知識やセンスも、先輩のお節介も、奢ってもらったゲキ酔いするワインも、全部が原子レベルの感情の種になって同じ円周上を生きる人から人へ伝播していくんだと思う。

そうして、残された者は亡くなった人のポジを知らぬ間に受け継ぐ。悲しみはまわりと肩代わりし合う。誰かの優しさに触れた時、自分も同じように誰かに与えたくなる。ひとりではないと気づく。

祖父の葬儀で母が、「死んでしまったらもう一生会えないと思っていたけど、自分もこの世を去ったとき、亡くなった息子にまた会える」と言っていた。

自分がこの世を去らなくても、亡くなった人たちは、形なくとも感情の種になってずっと近くにいるんじゃないだろうか。

こう思えたことが自体が嬉しいし、先輩が残してくれたポジを自分も知らぬ間に受け継いでいると信じたい。

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