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難読地名の荒生田神社@八幡東区

北九州市内には多くある難読地名の一つ、「荒生田(あろうだ)」
地名の由来は、天平時代に藤原氏と官軍が戦った場所で、敗れた藤原の怨霊を鎮めるために荒武党明神が祀られた。 その荒武党がなまって荒生田になったという説と、もともとは新生田で、新しく出来た田からつけられたと考えられた説があります。
前者の説が、ここ荒生田神社の由来の一つでもあります。

そんな荒生田神社ですが、
旧長崎街道沿いにある神社で、この辺りには豊前領最西の番所だった荒生田番所跡がありました。番所跡から板櫃川を渡った高見中央公園には「荒生田の一里塚跡」があり、約200メートル西の住宅地の中には雄大な「三条の国境石」が鎮座しています。ここからが筑前領でした。
そんな国境に荒生田神社は鎮座しているのです。
多分郷土史好きには、興味深い場所です。

JRの駅からは、だいぶ離れていますが、北九州市内を走る西鉄バスの七条バス停で下車。
バス路線より一つ路地に入ったところに荒生田神社はあります。

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御本殿

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境内の一角には、猿田彦命がお祀りされています。

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御祭神
 ・彌都波能売命(みづはのめのかみ)…水の神様
 ・少彦名命(すくなひこなのみこと)
 ・藤原広嗣

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)
藤原広嗣は藤原鎌足の曾孫に当たります。 当時の朝廷内で有力者だった父親や伯叔父たち(藤原四兄弟)が天然痘で次々に死去すると脱藤原政権を目指す橘諸兄が台頭します。 諸兄は唐留学の経験を持つ玄昉や吉備真備を抜擢しますが、逆に藤原氏の中心人物となった広嗣は大宰府に左遷されます。 これに憤慨した広嗣は大宰府で玄昉や吉備真備を弾劾するために軍を起します。しかし北九州で朝廷軍に破れ、後に唐津で斬られることになりました。
※出典:福岡人物伝より

御由緒
当荒生田神社は二つの社が合併して出来た神社である。
 明神社は字川ノ上(現在八王子橋付近の山にあり、天平十二年(西暦740) 板櫃川の戦で敗れた藤原広嗣の霊を祀った。初祀の時期は定かでないが、 おそらく十一世紀平安末以降と推定され、天保四年(西暦1832)大暴風雨により社殿は倒壊した。
 藩政期には崇敬の主力は水神社へと移行しつつあった。 水神社は彌都波能売命(みづはのめのかみ)を祀り字岩渕に鎮座、 慶長二年(西暦1597)の時の庄屋によって岩渕堰取水口(現在七条端下) の守護神として祀られ、元禄年間(西暦1688)現在地に茅葺の神殿に茅葺の拝殿、 少彦名命(すくなびこのみこと)を併せ祀り、神社のていさいは整って荒生田村の産土神 (うぶしなのかみ)となった。
 明治政府は神社合祀政策を進め 荒生田村においても明治三十五年、明神社と水神社を合併し到津八幡宮の末社として社名を荒生田神社と改稱す。
爾后(じご) 昭和十一年の大改築で現在の赤銅葺欅造り社殿が完成した。
※出所:荒生田神社案内板より

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御朱印

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こじんまりとしたお社ですが、地域の氏神様、産神様としてお祀りされている神社です。
また、地元の人たちに愛されている神社だと聞いています。
秋祭りには、地元の人たちが集まり様々な催し物が行われています。
この周辺では今でも神社を中核としたコミュニティーが脈々と受け継がれているようです。
そんな素敵な町の神社がもっともっと増えると良いと思います。
ちょっと寄り道して、道路を一本中に入って見える風景も楽しいものです。


神社: 荒生田神社(あろうだじんじゃ)
住所: 北九州市八幡東区川淵町2−11

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