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0127_キーリング

 夢を見た。随分と昔のくせに、起きた瞬間は、昨日の出来事のように新鮮に思える。もう何十年も前の恋人の夢。
 彼も私も20代半ばだった。なんだか世界の全てが柔らかく見えていたように思う。実体のない世界のなかでふわふわと私たちは微睡んでいた。毎日が、彼のためにあり私のためにあると感じる。何のこともない、ただ普通の恋人同士だった。同じ職場であったから、極力知られないように(彼は別会社からの出向者で私はその会社の社員であった)、仕事終わりには会社から少し離れた駅で待ち合わせた。一緒に帰ることはしないから、待ち合わせの駅の改札を出て、彼が待っていてくれるその光景が愛おしかった。私が彼に近づくと読書に視線を落としていた彼がゆっくりと顔をあげて、微笑みかけてくれるその瞬間が愛おしかった。
「お揃いのなにかを持っていたい」
 私が言うと、彼はいいよと言った。何がいいかと考えた結果、2人が好きなファッションブランドの店に行き、お揃いのキーリングをそれぞれ買った。
 1年ほどして、私と彼はお別れをした。
 何となく、メールが減り、何となく、約束が減り、何となく、会わなくなった。そんな風に、ただ普通の恋人同士だった。

「そろそろ新しいキーリング買ったら?」
 私のそれを手に持ち、年季を確認したのか夫は言った。最近、車を買い換えてスマートキーになったことで、彼は新しいキーケースかなにかを買おうとしている。
「お揃いで買おうよ」
 彼は言う。彼の手から私のそのキーリングを取り、よくよく眺めてみる。
 あれは確かに愛情だった。私はあの時、彼をもっとも愛していて彼もまたそうだったのだと思う。何と言うことはない、ただ一時の恋愛だった。どこにでも落ちている小石ほどよくある経験である。今、殊更私が彼に何を思うこともない。けれど、と私は思う。
「私はまだこれがいいから」
 あの時、彼が揃いのものを買うのに、それを指輪でも、ネックレスでもなくキーリングにしたのは、別れたあとにも、情念などを抱くことなく持ち続けられるようにだったのかもしれないなと私は今、解釈している。
 愛も恋も、既に情だってない。
 私は単にこのキーリングを気に入っている。
 それだけだから、もう夢にも見なくていい。
 ありがとう。少しだけ、気持ちが若返ったわ。

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★著者:あにぃ

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