春のせい

一気に暖かくなり春を感じた今日であったが、春というのは難しい季節だ。出会いの季節や別れの季節と言えば綺麗だが、内実そんな簡単に出会いや別れと向き合えるわけでもなく、環境の変化や人間関係の変化に振り回される季節である。

私は環境の変化も初対面の人も大変苦手なので春は好きではない。これはASDの特性なのか私自身の特性なのかよくわからないが、とにかく初めてのモノというのが苦手である。人も場所も音も匂いも味も全てだ。
そんな私にとって春というのはあまりきてほしくない季節であって、別れゆく人と過ごした日々に思いを馳せながらたくさんの出会いを思って期待に胸を膨らませるというよりは、誰かとの別れを引きずり新しい日々への不安を募らせるのである。

確かに、卒業や入学や就職はめでたいことであるし祝うべきことではあるのだが、果たして本当に当人にとってめでたくありがたいことなのか、と思うとそうでもないような気もする。人間誰しも何年も過ごした環境から離れることは寂しかったり不安だったりするだろうし、それがあたかも全ての人間にとって晴々とした門出や出発であるかのように表現するのは違うのではないかと思う。望んでその選択をした人もいればそうでない人もいるわけで、各人の事情すべてを汲むことはできないにしても、そういう事実が頭の片隅にあるかないかで少しは変わるのではないかと思う。

いずれにしても、春というのは難しい季節だ。自身の変化はもちろん、自分自身の立場が変わらなくても新しい人が入ってきたり見知った人がいなくなったりする。その変化に耐えながら与えられた仕事なり学業なりを普段通り修めなければならない。いくら他の動物より発達した人間であるとはいえ、かなり難しいことを課されているのではないかと思う。

出会いと別れが混在する春だからこそ、ゆっくり進む必要がある。もっといえば、ゆっくり進むことを許す必要があるのではないか。本来であれば、環境の変化を受け入れられる度量のある人間が、適応能力の低さを許容する寛容さを持たないはずがない。しかしそれができないのが今の世の中なように思う。否が応でも環境が変わってしまうこの季節に、何も急ぐことなくゆっくりとその環境に慣れるところから始められる場所などもはやないのではないか。それならせめて自分で自分を許すほかない。別れを受け入れられなくても、新しく知り合う人と上手くやれなくても、それを仕方がないこととしてゆっくりでも前に進むしかない。
そう。全てを春のせいにして、時に停滞しながらじわじわと前進するのである。

これにて。2024年3月29日。

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