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引っ越し

 虎の門病院を退院後、6月に腕の腫瘍の切除手術を受け、夏には杖なしで歩けるようになった。
 体力は徐々に回復してきたが、やはり自営業が立ち行かなくなった。
 住居兼仕事場にしていたマンションは2DKで、家賃が16万5千円もしたので、近くでもっと狭くていいから安いマンションを探し、秋には引っ越した。

 引越し費用は区から緊急援助資金を借りた。
 これは病気などでお金が必要になった区民に利息なしで貸してくれるもので、区役所に手続きに出掛け、書類審査ののち申請が通った。

 引っ越しするに当たってハウスクリーニングの必要があったが、業者に払うお金がなかったので、病み上がりで体力はまだ万全ではなかったが、自分でクリーニングしようと思った。

 私は大学卒業後、学習塾で小・中学生に英語と算数・数学を教えていた。
 毎年年賀状をくれる当時の教え子にも入院のことは伝えてあったので、メールで近況を知らせると、クリーニングの手伝いに来てくれると言う。
 交通費と小遣い程度の日当を払うからと言うと、もう1人、仲良しだった生徒を誘ってきてくれた。

 彼女たちは40代初めで、あの頃の自分たちと同じ年頃の子供の親になっていた。
 私が教えていた頃は、説明しながら黒板に書いて、大事なことだからとノートに写させても、日が経つと「そんなの習っていない」と言う、教わったことを忘れるのが本当に得意な生徒たちだった。(ノートを開けば証拠がある!)

 結局2日がかりでクリーニングに通ってくれて、汚れ落とし専用のスポンジ(激落ち何とかいうものだっけ?)やら重曹やら持参で、10年以上も使った部屋の汚れをきれいに落としてくれた。
 さすがベテラン主婦。

 1人はボランティアで子供に本の読み聞かせをしていた。
 もう1人は知的障害のある子供たちの世話をする仕事をしていた。

 気張ることなく、声高に自己主張することもなく、それでいて、人間はこうありたいと思うような生き方をしているので、彼女たちが語る言葉には重みがあった。
 クリーニングが終わってお茶しながら、2人のおしゃべりに耳を傾け、2人とも、人間として正しい生き方をしていると思った。

 昔彼女たちの上に立って指導していた私は、今では同じ線の上に並んでいるか、ことによったら、追い越されているかもしれない。
 でも、それも悪くない、と思った。
 教え子には自分より成長して欲しいと願うものだから。

 引っ越し先は元いたマンションから徒歩2〜3分のところだった。
 引っ越すときに同じフロアの3軒のうち、不在がちで付き合いのない1軒を除いて2軒だけ挨拶に行った。

 お隣りのおばさんはとても残念がって、
「あなたのことが好きだったのよ」
 と言ってくれた。
 裏表がなくてさっぱりしているから、だそうだ。
 そんなふうに思われていたとは知らなかったが嬉しかった。

 引っ越しても会いに行くつもりなら会いに行かれたが、特に用事はなかったし、お互いに自分の生活が忙しいので連絡を取り合ったりもしなかった。

 1度だけ、私がいただきもののカツオのタタキを、2本いただいたので1本あげようと電話したことがある。
 イキのいいカツオを炭火であぶって冷凍したもので、入院中や自宅待機の間にお世話になったお礼にあげようと思いついたのだ。
 電話で食べるかと聞くと、食べるという返事だったので届けにいった。
 おばさんも自宅を出てこちらに向かってきたので、道の途中で出会って渡した。

 その後2年ほど経ってから、おばさんとスーパーの前でばったり会ったことがある。
 少し立ち話をして別れた。
 相変わらずお元気そうだったが、会うのはこれが最後になった。

 その後も何度か元いたマンションの前を通りかかったが、窓には1年中すだれがかかって中が見えないようになっていたので、おばさんが在宅かどうかわからなかった。
 昼間は老人会に出たり、近くにいる娘さんのところに行ったり、自宅を出たり入ったりしていて、落ち着いて家にいることはなかったから、私が立ち寄っても不在だったかもしれない。
 部屋の前を通るたびに、すだれの下りた窓を眺めて、おばさん元気かなと思ったが、立ち寄りはしなかった。

 2012年にまた引っ越すことになり、おばさんには連絡しないで引っ越してしまった。
 おばさんと最後に会ってから5年ほど経っていたし、わざわざ引っ越すことを伝えに行かなくてもいいだろうと思ったから。

 私の父は生きていれば88歳だったが、おばさんは私の父よりいくつか年上だったので、存命だったかどうか、まだあのマンションにいたかどうかはわからない。

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