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退院(頚椎腫瘍 32)

 今年も残すところわずかとなり、病院も年末年始の準備に入って、どの病室も空きベッドが目立つようになった。
 体調が回復した患者は年内に退院するし、長期入院の患者もお正月は家族と一緒に過ごすため、次々と一時帰宅し始めた。

 病室の前に置かれていた歩行器がすっかり片付けられてしまったので、廊下はいやにがらんとして、病棟全体が閑散とした雰囲気に包まれた。

 私の病室でも、既に錦糸町のおばあちゃんと国分寺のお姉様が退院し、新たに入室したSさんは別の病室に移ったので、私の他は茅ヶ崎夫人と三崎口夫人だけになった。
 しかも、私が退院する日は茅ヶ崎夫人がよんどころない用事で自宅に帰っていたので、三崎口夫人と私の2人きりだった。

 私は家に帰っても料理はできないから、病院で昼食をとってから退院するつもりで、朝になって荷造りを始めた。
 入院するときに荷物を送った箱はとっておくスペースがなくてつぶしてしまったので、前の日に売店から段ボールの空き箱をもらってきておいた。

 荷造りしているところへN先生が現われた。脳外科へ持っていくMRIの写真を持ってきてくれたのだ。

 前の日だったか、それとも前の週だったか忘れたが、N先生がしばらくぶりに脳外科受診の話を持ち出した。
「MRIを貸し出しますから、それと紹介状を持って、退院したら虎の門病院の脳外科へ行ってください。ぼくが紹介状を書きます」
 てっきり医科歯科大病院に紹介されると思っていたので、いきなり虎の門病院と言われてとまどっていると、先生は、
「ぼくは専門外なので大きなことは言えませんが、虎の門病院はいいですよ」
 と勧めてくれた。

 MRIは頚椎と脳のを3枚ずつ、計6枚貸し出してもらうことなったのだが、写真が大きくて入れて持っていくのに適当なサイズの手つきの袋がなかった。
 N先生に言ったら図面用の大きな箱を持ってきてくれたので、それに入れて、衣類や何かと一緒に宅配便で送ることにした。

 先生は私が荷造りしているのを立って眺めていたが、
「アンヌさんは自立しているなぁ」
 と、感心したように言った。
 確かに自立はしているが、自分の荷物を荷造りしていてほめられるとは思わなかった。

 三崎口夫人は先生のこのコメントが気に入らなかったらしく、
「どうしてアンヌさんにだけそんなこと言うの? みんなだって自立しているのに」
 と憤慨した。
 先生が自分の患者の様子を見に来てほめただけのことで、他の患者には関係ないのに、おかしな三崎口夫人。自分もほめてもらいたかったのだろうか? 

 私の退院準備がつつがなく進行していることを見届けると、N先生は病室を出ていこうとしたが、その前に、
「30日と31日はいますから、何かあったら電話してください」
 と言った。
「N先生は病院に来ていらっしゃるんですか?」
「来ています」

 先生は休暇の間の当直に当たっているのだろう。
 病院が休み中は外来も手術もないから、先生も暇かもしれない。気分転換に電話してあげようかしら?
「何もなくてもお電話しましょうか?」
 そう言うと先生は笑った。冗談だと思われたらしい。

 あとで病院勤務の内科医の友人に、
「休みの日の日直は暇だと思われるのは悲しい。書かなくちゃいけない書類もいろいろあるし、患者さんの状態変化は休みには関係なく起こるから、手が少なく検査等も制限のある休み中、任されているスタッフは神経を使っている」
 と叱られた。
 ああ、そうなのね。能天気な患者で済みません。

 昼食後、ボランティアのOさんが迎えに来てくれた。
 三崎口夫人や看護師さんたちに挨拶し、エレベーターで1階に降りたところで、病室に杖を忘れたのを思い出した。
 取りに戻ろうとしたら、例の威勢のいい美人の看護師Tさんが、杖を持って階段を跳ぶように下りてきた。
「ベッドのところにしっかり置いてあるんだもの」
 やれやれ、最後まで抜けている。

 1カ月半の入院生活。
 お世話になった先生方や看護師さんたち。

 優しいSさん、夜勤専門の親切で可愛いKさん、ほかにも好きな看護師さんはたくさんいるが、看護師さんがいなかったら何ひとつ出来ない状態で、本当によく面倒をみてもらった。
 重労働なのに疲れた顔もしないで、いつも優しく接してくれた看護師さんたちには頭が下がる。

 看護師さん同様親切に面倒を見てくれた介護師さんたち。

 お掃除のKさん。ベッドに寝たまま腕を伸ばして使ったティシューを捨てると、ゴミ箱の位置がずれていて床に落としてしまうことがよくあった。それを謝ると、いつも、「いいのよ。下に落としておいて」と言ってくれた。

 それに、技師さんなどその他の病院勤務の方々。

 皆さん、どうもありがとうございました。

 たまにはけんかもしたし、お互いに迷惑に思うこともあったが、助けたり助けられたり、仲良くお喋りした病室の仲間たち。みんなのおかげで毎日が楽しかった。

 退院しても新たな試練が待ち受けている。問題は山積みだけれど、しっかり立ち向かっていかなくては。
 ありがとう、そして、さようなら、九段坂病院。
 

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