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探してきたマイ哲学

2020年になりました。
ホラーエンタメに関わって5年目になります。

自分の世界観やイベントを創っては、修整し考えては崩し、
何を表現したいのか?
誰に届けたいのか?
なぜここにいるのか?
何を成したいのか?
何が足りないのか?

最先端のエンタメを観に行っては何が違うのかずっと考え続けていました。

やっと見えてきた二刀流の私。死と生の哲学に向かい創り感じ、問うアーティストである私。エンターテイナーであり人々を愛し、楽しませることを幸福とする私。

真実や感情を明確にできない事柄を形にするアートと
人にわかりやすく届け伝える体験エンターテイメント真逆の性質をもった自分が混ざり、もどかしくて苦しんだ1年は本当の私の価値や強みを発見する時間だった
その対なる2つを両立させるのはまだ難しい。

私の中には、恵まれ幸せな状況に嫌悪する自分がいて、不安や不満があるときほど活力が湧き、ワクワクする自分がいる。欠けているピースを埋めてしまうと、全て終わってしまい、生きる目的を新たに探す必要がある。満たされると「怖い」のはそのせいだとわかってきた。

そして昔から、白紙に戻すことが好きだったらしい。ことあるごとに誰も私を知らない場所に1人で飛び込み0から始めることを当たり前にやっていた。それは死ぬことと同じで、白いキャンパスにまた1から好きな色を選んで入れることができる自分の再構築デザインだと思っている。住む場所も、所属も、遊びにいく場所も知らない人たちの中に1人でサッと紛れこみにいく。人生で何度も"擬似的死"を体験し生きることを西洋の哲学者ハイデガーという人が"先駆的決意性"として説いていた。私は子供の頃からそれをナチュラルにやり続けてきたのだ。

気づいたときから自分の家族がいて、近所の関係性や強制的な友達ができている外的環境から出来上がった自分から出たときに人は自由を手に入れるけれど、自由ほど無で寂しいものはないのだと気づくまでには、個人差がある。誰にも何にも執着しないと、境地にたどり着くけれど人間という生き物を謳歌することはできなくなるので、どこに執着するか、誰の為に生きるかを再設定し直した。その執着は経験と年齢と共に変化していくこと。

また、私の愛情は個人に対してではなくたくさんの人々への平等な心を与え、自らも幸福を得るタイプの愛情の形をもっていたりする。こともわかってきた。

自分の人生の行動の癖やパターンを客観視しただけでなく、独学で死について考え続けた結果、自然にマイ哲学を生活の中で実践しており、その上で哲学の本へとたどり着いたことで疑問の解消と本当の意味で納得感が高かった。

以前、副住職の方と話していて「私小学生の時に、どうせみんな死んだら骨になるんだし、骸骨は平等の象徴だ!すき!」ってなったんです。って話したら「貴方は野生のブッダですね。」って言われて大笑いしたことがあったけれど、将来はエンタメの域を越えて、死を纏って、

生きてる方を幸福に導ける死のデザイナーになることが夢です🎠

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