アベノアサシン・サポーターの周辺で

アベノアサシン(113)が、一部で〔偶像化・英雄化〕しているらしいけど、その事自体は、まあ、別に今に始まったことじゃないよね。ちょっと調べれば、昭和の時代だけでも、「515」や「226」などの首謀者や実行者たちもやっぱり〔偶像化・英雄化〕されたからね。つまり、「よくやった」「許してあげて」と叫ぶ庶民はけっこういた。

で、アベノアサシンや「515」や「226」を支持したり擁護したりするときに出てくるのが「最後の手段として殺人」という考え方と、そこから垂れ流される「殺人は悪いことだが、他に残された手段はなかったのだ。彼らは、我々の幸福や理想や未来のために自ら罪を背負ってくれた。ありがとう!」という、ポンコツな「論法・認識(と感謝)」

ポンコツの理由は、①「最後の手段としての殺人」という考え方の元になっている「殺人は悪いこと」という認識が誤っていることと、②「殺人を選択することの真の害悪」をまるで理解していないので、「殺人」の「罪」はその実行者だけが背負うと思い込んでいることの2点。

①の話からすると、殺人、輒ち「同種殺し・同族殺し」が「悪いこと」というなら、人間以外の全ての動物は日常的に平然と「悪いこと」ばかりしていることになる。同種殺し・同族殺し・子殺し・親殺しは、動物界にはよくあることだからだ。無論、実際は良いも悪いもない。生命現象とはそもそもそういうものが「込み」の現象なのだ。原子や分子は互いの電子を奪い合って、くっついたり離れたりする。雨が降ったり、風が吹いたり、岩が崩れたりする。生物は殺したり殺されたりする。全てひと繋がりの同じ地平。分子の「積み木」を組み上げたり、バラしたり、移動させたりしているだけのこと。

気づかなければならないのは、「殺人は悪いこと」という認識は、「知性現象の怠慢」だということ。「悪い」についてとことん考えれば、「殺人は悪いこと」という一行いちぎょうのために分厚い注釈書が一冊書ける

「悪いことってなんだ?」にちゃんと答えられないくせに、「殺人は悪いことだけど、他に手段がなかったのだから」というexcuseをやりがちな連中の頭の中に存在している「悪いこと」は、実は、常に必ず相対的。例えば、仔インパラを狩った母チーターがしたことは、母インパラにとっては「悪いこと」だけど、腹をすかせた仔チーターにとっては「良いこと」になる。逆に、母チーターの狩りを邪魔して、自分の子供を救った母インパラがしたことは、腹をすかせた仔チーターにとっては「悪いこと」だけど、命拾いした仔インパラにとっては「良いこと」になる。相対的。つまり、くだんのアサシンサポーターたちの「殺人は悪いことだけど…」式の「譲歩の副詞節」は、実は譲歩にも何にもなってない。単に「私達から見れば、あの殺人は良い殺人だ」と言っているだけ(仔チーターにとっての、母チーターの「仔インパラ殺し」のように)。

そこで②の話。「殺人」は別に悪いことでもないし、さりとて良いことでもない。それは、人間以外(あるいは人間を含めた)あらゆる生物が採用している生存戦略上の真っ平まったいら」な手段。厄介なのは、その「真っ平ら」な手段(殺人)を人間が採用したときに、人間という存在が一段「バカ」になってしまうこと。同じようなことが、男と女(あるいは女と女、男と男)がベッドの上で「くんずほぐれつ」しているときにも起きるが、その場合の「バカ」は、たいていはその場かぎりの「バカ」で、誰も気にしないし、咎めないし、世の中の迷惑になったりもしない。しかし、「殺人」を手段として採用することで陥る「バカ」は、最低で二人(被害者一人と加害者一人)の当事者、最大で全地球規模の人々を巻き込む可能性があるし、実際その「実績」もある。「血で血を洗うヤクザの抗争」「民族浄化」「世界戦争」などなど。

何度でも言うが、生命現象依存型知性現象である人類幸福な最期自発的絶滅で、それが人類の「天寿の全う」である。しかし、それを実現するには、人類が、事実上のvirtual生命現象依存型知性現象として振る舞えるまでにならなければならない。そのために、まず人類がしなければならないのは、自分たちが生命現象であることを「忘れる」こと(厳密には、忘れることが可能になること)。言い換えるなら、「生命現象に依存している」という全人類共通の「弱点」のことは、そんなものは最初から存在しないかのように、誰もが、悪用も攻撃もしないようにすることだ。物理的な現実としての人類は、生命現象依存から抜け出すことはできないが、知性現象それ自体の振る舞いとして、仮想的virtualになら、それは(本気でやる気があるなら)可能だ。


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