「泣ける映画」の「泣ける」について

これも以前からモヤモヤしていることなので、この際、成仏させる。

「泣ける映画」や「泣ける小説」の「泣ける」は「泣くことができる」という意味ではない。例えば、落語の江戸っ子が「くー、泣ける話じゃねえか!」と言う時、彼は「思わず涙が出てしまうような話=泣かせる話」だと言ってるのであって、「泣くことができる話」だとは言ってない。

今は、発信する側も受け取る側も、大抵の場合、「泣くことができる映画」のつもりで「泣ける映画」と言ったり書いたりしているように見える。つまり、「笑える映画」の「笑える」と同じ〈「可能」のニュアンス〉で、「泣ける」を使っている。その流れで、「泣ける映画」=「泣くための映画」批判になったりもする。

しかし、「泣ける映画」の「泣ける」は、実は、例えば、「妬ける」と同じ〈「否応無し」のニュアンス〉の「泣ける」。「妬ける映画」や「妬ける話」あるいは「妬ける関係」の「妬ける」を、「妬くことができる」と理解する人は、多分、今のところ、いないはず。どう間違っても、「否応なく妬いてしまう=妬かずにいられない=嫉妬せずにいられない」の意味だ。

因みに「妬ける映画」の「妬ける」と「泣ける映画」の「泣ける」は、〈「否応無し」のニュアンス〉という点では同じだが、それぞれの対象が微妙に違う。「妬ける」は作品の「出来」を対象にしているが、「泣ける」は作品の「内容」を対象にしている。ただ、「妬ける話」と「泣ける話」になると、「妬ける」と「泣ける」にそのような違いはなくなる。どちらも話の「内容」を対象にしている。

考えてみると、そもそも、「泣く」という人間の行為に〈可能・不可能〉の要素が入り込む余地はなさそうだ。いや、〈不可能〉側の「泣くことが出来ない=泣けない」はありそうだが、〈可能〉側の「泣くことができる=泣ける」は、限りなくフィクションのような気がする。

つまり、現実の事象として、「泣いて当たり前なほど悲しいのに、泣くことが出来ない」はあり得るが、その状態を脱して実際に涙したときに、それを指して「泣くことができる=泣ける」というのは、後付けの「嘘」に思える。

人間が「泣く」とき、それは常に「否応無し」ではないか? だから、「泣くことができる」という状態を指す言葉としての「泣ける」は、本来的に、存在しないのではないのか?

「泣く」とか「妬く(嫉妬する)」という感情・行為は、一般的には否定的なもので、基本的に、〔積極的に実行するもの〕ではない。だから、それらの行為の属性には、最初から〈「可能」のニュアンス〉が付与されていない気がする。

「泣ける映画」の「泣ける」を、「泣くことができる」と「誤解」してしまうのは、単に、言葉のカタチが、「笑うことができる」の「笑える」と似ているから、という、ただそれだけのことが理由。「泣く」という行為の現実を少しでも知っていれば、「泣くことができる」という状況の特殊性を意味する言葉として「泣ける」を(例えば)映画の形容詞として使うことの異様さにもすぐに気づけるはずで、であるなら、そもそもの「泣くことができる」という解釈を、〔ありえない誤り〕として退けることもできるのではないか?

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