いずれは、生身の人間が赤の他人を「演じている」ことが、奇妙で滑稽で、もしかしたら不気味に思えるようになる。

ものすごく乱暴に言ってしまえば、物語動画の類(映画など)はいずれ全て「アニメ」になる。今のアニメは、声はまだ生身の人間が「演じて」いるが、それも全て人工物(初音ミクの子孫たちのような存在)に置き換わる。もちろん、「アニメ」と言っても、日本伝統の「セルアニメ」のような手書きの「絵」ではなく、実写と見紛うばかりのコンピュータグラフィックスだ。即ち「超アニメ」である。

「超アニメ」なら、生身の誰かが、肉体的もしくは精神的に「苦しむ」ことはないので、どんな場面(搭乗車両が多重衝突に巻き込まれる、北極海に放り出される、軍用ヘリの飛び交う戦場を駆け抜ける、などなど)も、「演者」の安全や倫理をまったく気にせず、思いのまま描ける。

いやいや、そういう話じゃない。それも大事だがもっと大事なことがある。

今でも、「アニメ」なら、作品内の登場人物は、他の誰でもない、その登場人物「本人」である。一方、生身の俳優が役を演じる作品では、どの登場人物も、本当は「別人(=俳優)」で、しかも、もしもその俳優が売れっ子なら、他の作品では、その同じ顔・同じ背格好・同じ声の人間が、また全く違う登場人物だったりする。だから、我々は今、生身の俳優が演じる物語動画を愉しむ際には、必ず、無意識且つ自動的に〔「ごっこ遊び・ままごと遊び」に入る手続き〕を踏んでいる。しかし「アニメ」にその類の手続は必要ない。なにしろ、全て「本人」だから。

この〔「ごっこ遊び・ままごと遊び」に入る手続き〕は、生身の俳優が演じる物語動画を鑑賞する場合に限らない。

文楽の鑑賞者は、舞台上で泣いたり喜んだりしているのは、本当はただの人形(モノ)だと分かった上で、鑑賞中はその認識を脇に置いている。『ウルトラマン』や『ゴジラ』を観るときも、「あれはただの着ぐるみで、中に人間の演者が入っている」と分かった上で、鑑賞中はそのことは「忘れる」。

「物語動画即ち超アニメ」が「常識」になった未来の鑑賞者たちにとって、〔「本当は赤の他人なんだけど、役を演じているのだから、その登場人物であると見做す」鑑賞法が求められる物語動画〕は、「特殊」な部類の作品になるだろう。能や歌舞伎や落語は、今でも既に、鑑賞する側に一定の素養や「慣れ」を求めるが、それと同じような「とっつきにくさ」「わかりにくさ」を、未来の鑑賞者たちは、生身の俳優が役を演じている物語動画に対して覚えるようになる(だろう)。

これは鑑賞者側の観賞能力の低下を意味するのだろうか?
どうかな? 違う気がするけど。

それはともかく、未来の鑑賞者たちが〔生身の俳優が演じる役(登場人物)から受ける違和感〕は、今の鑑賞者たちにはあまりピンと来ないかもしれない。完全にそのとおりではないだろうが、きっとこんな感じだ。人気アニメが舞台劇になると、アニメの登場人物たちを生身の人間が演じることになる。〔元のアニメ〕のファンがそのときに目にする〔生身の人間が演じるアニメの登場人物たち〕に感じる違和感が、未来の鑑賞者たちが〔生身の俳優が演じる役(登場人物)から受ける違和感〕に近い(はずだ)。例えば、それがどんな美人俳優であろうと、生身の俳優が演じているメーテル(『銀河鉄道999』)は、アニメのメーテル「本人」(原作漫画のメーテルが「本人」だという意見は今は無視する)の「本物」感=「本人」感にはまったく太刀打ちできない(この道を進んで行けば「二次元愛」論もやれそうだが、今はやらない)。

考えてみれば、物語動画で、生身の俳優が登場人物を演じなければならないのは、これは、単に技術的な制約だったのだ。CG技術が充分に発達した〈おかげ〉で、俳優が着ぐるみを着て演じる必要がなくなった『シン・ウルトラマン』同様、生身の人間と見分けがつかないレベルのCGが実現すれば、刑事ドラマも戦争映画も恋愛映画も、生身の俳優が登場人物を演じる〈必要〉はどこにもない。むしろ、〔生身の人間である俳優〕を使わないほうが、否応なく彼らに付随するイメージや経歴や、あるいは将来の突発的な不祥事から、作品を〈守る〉ことができて安心なくらいだ。

生身の俳優はもっぱら舞台劇をやるようになるだろう。その場合、観客は、(今でもそうだが)、その俳優の演技(技量)を愉しみに行くことになる。それはちょうど、スポーツ選手の妙技を愉しむのに似ている。

物語動画も二種類に分かれるだろう。「超アニメ」によって描かれるものと、生身の俳優が演じるものの二種類だ。主流は「超アニメ」になる。生身の俳優が演じる物語動画は傍流になり、「舞台劇を収録した作品」に近づくはずだ。そして、「超アニメ」で作れてしまえるはず作品を、あえて生身の俳優に演じさせて作った作品を見せられると、鑑賞者たちは、刑事ドラマをミュージカルでやったり、第二次世界大戦を文楽で見せれれたりしているような「持って回った感」を感じるようになるかもしれない。しかし、その時点で、生身の俳優が演じる動画作品の「意味」や「意義」は、完全に、〔俳優たちの演技力を堪能するもの〕に変わっていることに気づくべきだ。そこで語られる物語は、もはや「方便」であり、重要なのは、個々の俳優たちの演技それ自体である。

それは今だってそうだろう、という声が聞こえる。確かに、毎年毎年、世界中で俳優たちに与えられる主演賞だの助演賞だのは、俳優たちの演技力を称賛するものだ。しかしそれは、今の我々が、「実写」の物語動画を作ろうとするときには、映像技術の未熟さ故に、どうしても生身の俳優に頼らざるを得ないという「制約」がもたらす、「混乱」や「侵食」のように思えて仕方がない。つまり、物語動画を純粋に評価するときに、そこに登場している俳優たちの演技力が何かしら物を言う(あるいはそれを無視できない)という状況は、実は「不健全」ではないのか、と。

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