『LASTMAN』第3話を観て、また「人間の終わり」について考えた

福山雅治と大泉洋の「ぴったんこカンカン」なイメージに釣られて『LAST MAN』を初回から観ているけど、第三話のモチーフが「不倫がバレるより、殺人罪で捕まったほうがマシ」だったので、そんなバカな!と思って、前から考えていたことを、また考えた。

(注:以下、『LAST MAN』とは全く関係ない話ですよ)

「人間の終わり」がどういうものかを既に知ってしまった我々は、人間(地球人類)が歩いている道の「正体」も知ってしまったので、所謂LGBTQ系(アセクシャル・アロマンティックを含む)の性的嗜好の多様性に加えて、次の3つのタイプの存在も受け入れなければならない。

①自分の遺伝子を受け継いだ子供が欲しい人
②子供は欲しいが遺伝子にはこだわらない人
③子供は要らない人

大事な点は、上記の3つのタイプは、どのような性的嗜好とも両立しうるということ。だから、例えば、タイプ③だからといって、常に必ず「sexをしない」とか「sexをすべきではない」とかにはならない。平たく言えば、「子供なんか絶対に欲しくないんだけど、とにかくsexは大好き」な人がいてアタリマエだし、それで問題ないと思えるようにならなければならない。

いずれにせよ、人間には〔LGBT系多様性×3タイプ〕のバリエーションが存在する。

①については特に説明は要らないだろう。人間に限らない、汎ゆる生物の有り様がこれ。悪口っぽく言えば「自然淘汰の言いなり」。

②は一見奇異に思えるが、実は昔から存在する。遺伝子ではなく、財産だの技だの名跡だのを継承させるために、養子を取ったり弟子を取ったりするアレが②の基本。

③が一番説明を要する。なぜなら、人類全体が③になれば、遠からず人類は消滅してしまうように思えるから。しかし、そうではない。③は〔自分の子供〕は要らないと言っているだけ。社会を構成し運営する「子孫」の存在を否定しているわけではない。他人が勝手に産んで育てる分には構わない。究極の③は、子供は「工場」で作って、人類全体の「子孫」として、人類全体で養育すればいいと言い切ってしまう。

①と②が、自分という個人のナニカ(遺伝子や名跡や財産など)を継承させる目的で子供を欲しがるのに対して、③は人類種あるいは人間文明の継続のための子孫としての子供を求めている。つまり、①は生命現象寄りで、③は知性現象寄り。②はその中間。

多様性尊重の極北は、〔自分の遺伝子を残すことに関心のない人たち〕の存在をも受け入れること。性的嗜好の話ではない。「将来も人間社会を維持していくために子供が必要だというなら、それは養子でもクローンでも構わないよね」と思っている人たちの存在を受け入れるということ。ひっくり返して言えば、自分の遺伝子を受け継いだ子供を産み育てることを「人間のアタリマエ」などと思わないことそれは生命現象のアタリマエであって、知性現象のアタリマエではない。それが多様性尊重が行き着くところ。

不倫(浮気)の話に戻ると、①と③が結婚した場合、二人の遺伝子を受け継いだ子供が居るのに、③が不倫をするという状況が出現しやすくなるだろう。①と③の間に子供が生まれるのは、例えば、異性愛者と同性愛者の組み合わせの「夫婦生活」のようなもので、一方が、世間やパートナーの「常識」や「思い込み」に「譲歩」している状態。つまり、③は、「自分の子供は欲しいに決まっている」という世間やパートナーの「思い込み」に譲歩し、同性愛者は、「女は男が好き・男は女が好き」という世間やパートナーの「常識」に譲歩している。この場合の③が無類のsex好きだった場合、〔不倫・不貞〕は必然とすら言えそう。

そこで重要になるのが、自分はどのタイプなのかを自覚し、表明もすること。〔ストレートか、それともLGBTQ系のどれかなのか〕に加えて、遺伝子信奉者か否かの表明(①か②かの表明)、更に子供を持ちたいか否かの表明(③かどうかの表明)も、当事者の幸せのために、「事前」に行っておく必要がある。

因みに、〔子供を欲しがること〕や〔子供が生まれる異性愛〕の方が、人間として「正しく正常」と思い込みがちなのは、何よりもまずそれが、生命現象の「要請」だから。生命現象としての人間は、子供を生まれなければ(作らなければ)、単純にそれでオシマイ。そして、人間は、その生命現象としての〔ヒトの身体〕に依存した知性現象なのだから、知性現象としての立場からも〔子供を生むこと〕と〔子供が生まれる異性愛〕の方が「正しく正常」であり、その逆は、「異常・怠慢・病気・裏切り」などとなる。

しかしそれも「過去」の話。代理母などの生殖医療(?)やクローン技術によって、自分では子供を産まずに、人間社会を継続させるための「子孫」を残す選択肢が与えられつつある上に、人工知能(AI)技術の向上によって、人間抜きでも、地球人類の文明を継続・発展させることが可能な「気配」が見え始めたからだ(=人間の終わりの始まり、というやつですなあ)。

結局、不倫とか浮気で大騒ぎになるのは、人間の本質を「遺伝子」だと勘違いしている人たち。百万回でも繰り返すけど、人間の本質は「知性現象」であって、「生命現象」は単なる「媒体」。音楽CDの「本質」は音楽であって、プラチックの円盤はただの「媒体」なのと同じ理屈。遺伝子は、〔「媒体」に過ぎない「生命現象」〕の設計図でしかないので、大事かもしれないけれど、その大事さは、音楽にとっての、プラスチック円盤の製造法レベル。

生命現象としての〔人間の身体〕は、〔人間の知性現象〕を実現できれば、それで「合格」。個々の人間は、自分の遺伝子から作られた人間(媒体)を重要視するが、標準的な〔人間の知性現象〕を実現するのに、特定の個人の遺伝子が必要になることはない。大抵の場合、誰の遺伝子からでも、〔標準的な知性現象を実現できる「媒体」〕=〔標準的な知性の人間〕が出来上がる。地球上の80億人が「生き証人」。

自分の遺伝子を引き継いでいるという意味での「私の子供」というものに人間が固執するのは、〔知性現象としての人間〕の視点からは、ほぼ意味のないこと。毎年毎年生まれてくる人間の子供のほとんど全てが、20年後には、ちゃんと労働者兼消費者になるのだから、個体ごとの〔遺伝子の違い〕は、標準的な〔人間の知性現象〕にとっては、単なる「誤差」。あるいは「文体」の違い。

人間の知性現象にとって本当に重要なのは「教育」の方。遺伝子が誰のどれでも、出来上がる〔生命現象としての人間〕に大した違いは起きないが、教育が変われば、出来上がる〔知性現象としての人間〕は大きく変わる。血も涙独裁者から慈愛に満ちた博愛主義者まで。あるいは、言葉も喋れず四つん這いで這い回るオオカミ少女から宇宙を解き明かす理論物理学者まで。



知性現象としての人間にとっては、自分の遺伝子が受け継がれるよりも、自分の思想や研究や発見が受け継がれる方が喜びは大きい。だから、「子」は養子で構わないし、養子の「中身」は、他の人間が産んだ子供でも、誰かのクローンでも、ゼロから作った人工培養でも構わない。それどころか、人間でなくても構わない


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