『臨済録』:メモ

【注意】『臨済録』が好きな人、『臨済録』を座右の書にしている人は、以下に書き連ねられた「個人の感想」は読んではいけません。

どこかの有名人(故人)が、戦時中か大震災後に、「『歎異抄』と『臨済録』さえ焼け残っていればいい」と言った、という話を聞いて、『臨済録』(岩波文庫版)を読んだ(『歎異抄』は既読)。と言っても、口語訳の部分だけ(そのあとで、『臨済録』の解説本のようなものも読んだが、いい加減バカバカしくなって、半分で放り出した)。

『臨済録』は、謂わば「絵心のない人が描いた画集」だった。おそらく、そもそも、言葉で説明する能力の劣った人が始めた宗教なのだろう。そして、代々、言葉で説明する能力の劣った人たちがトップに君臨してきた宗教なのだ。

しかし、人並みの知能の持ち主が言葉で説明できないのなら、それは最早、最初にゴータマさんが「悟った」こととは何の関係もないシロモノ。劣化続編。

『臨済録』に登場する人たちが有難がったり修行の目標にしている「悟り」だの「境」だのは、それを「神」だの「宇宙意志」だのに言い換えても特に違和感のない、単なる神秘主義的観念。なので、そりゃあ、言葉では説明できない。ゴータマさんは「考え方」や「見方」を説いただけなのに、『臨済録』の中の人たちが目指しているのは、キリスト教的に言えば、「神と一体になる」みたいなことになっていて、ヤレヤレな気分。

こうした「先祖返り」や「知的後退」が起きた理由は、たぶん、「深い瞑想体状態」を「特別なナニカ」だと勘違いしてしまったから。もっと具体的に言うと、「自分自身が消える=世界と一体化する」という(脳の誤作動を)実際に体験をすることで、初めて、「空」だの「無」だのという、所謂「仏教的境地」を「悟る」ことができると、「誤解」したから

しかし、「深い瞑想状態」は、死にかけても薬物を使っても脳に電気を流しても起きる、ただの生理反応(てつねこ学的に言えば、〔媒体に過ぎない生命現象〕の属性)。脳科学や神経科学やらが発達した現代では、「鼻の穴にコヨリを突っ込んだらくしゃみが出る」くらい、どうということもないことだが、『臨済録』の当時は、その種の科学知識はほぼ皆無なので、必然的に、理屈では説明できない「尊いもの」「超越的なナニカ」という認識になる。

更に「悲劇」は続く。どうすれば誰もが「深い瞑想状態」を体験できるようになるかはよく分からないが、「深い瞑想状態」にある間は、普段あるような理屈や道理や合理性が吹き飛んでいるといういうことは「理解」できているので、「要はそれ(道理が吹き飛んでいる状態)を再現すればいいんじゃないか」と、道を誤るのだ。

そして、坂道を更に転げ落ちる。理屈や道理や合理性を作り上げるものは言葉なのだから、「深い瞑想状態」に到達するには、まず言葉の「呪縛」から解き放たれなければならない。逆に言えば、言葉を使って理屈を考えているようでは、目指す場所からは益々遠ざかる。そこで、言葉で丁寧に説明することを忌み嫌うようになり、逆に、あんなバカバカしい頓知問答が繰り返される。

知識も概念も用語もないけど、どうにかしてアレ(「悟り」)を他の人にも〔体験してもらおう・理解してもらおう〕と大真面目に頑張ったら、結果、松本人志の『ドキュメンタル』的な「ボケ合戦」になってしまった、というわけ。

そう。『臨済録』の中で繰り広げられているのは、喩えるなら、お笑い芸人同士のボケ合戦なのだ(今、「喩える」と言ったが、本当は「正味同じ」だと思っている)。だから、やたらと登場する「喝!」の「正体」は、漫才師の「なんでやねん!」「ええかげんにしなさい!」「もうええわ!」。

お笑い芸人たちと、『臨済録』の登場人物たちの違いは、前者が「オレの笑いを理解できるか?」「オレの笑いの方が破壊力がある」「オレの笑いのセンスは素晴らしい」と競い合っているのに対して、後者では「笑い」の部分が全部「悟り」や「境地」になっているということだけ。『臨済録』の中で繰り広げられている問答は、ひな壇芸人たちがバラエティ番組で競い合っている姿そのまま。傍から見ている者にとってはそれほどでもないもの(笑い・「悟り」)が、当人たちにとっては命がけの一大事なのもそっくり。

もうひとつ。『臨済録』の中に出てくる人たちほど、言葉に拘泥している人たちはいない。彼らが言葉の「無力さ」を力説し続けているのは実に皮肉。というか、バカなのかな、とさえ思った。自分の姿が見えてないとはこういうことか、と。それが『臨済録』を読んで勉強になった唯一のこと。のようにも思える。

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