『(r)adius/ラディウス』:メモ

オモシロク観た。『ジョジョ』学部卒業生からすると、物語の序盤が「暴走する自身のスタンド能力に右往左往する新米スタンド使い」風なのも好かった。

(以下、ネタバレありますよ)

Prime Videoのページに、"ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督「メッセージ」の制作スタッフが描く、もうひとつのSF世界!"と書いてあったので、同じ監督なのかと思っていた。観終わったあとで確かめたら、監督は違っていた。

監督は違ったけれど、スタッフは『メッセージ』と同じなので、やっぱりSF要素は単なる「出汁」扱い。だが、それがよかった。ついでに言えば、『メッセージ』をゴリゴリのSF映画だと「勘違い」している人が多いけど、あの映画でもSF要素は、あの「特殊な能力」を持つ主人公を描くための「出汁」。だから、実はSFじゃなくてもいい。魔法でもいいし、悪霊の呪いでも、スタンド能力でも、とにかく、主人公の奇妙な体験に「説得力」を与えるための「でっかい嘘」があればいいだけだから。

主人公のリアムが、実は連続誘拐殺人鬼だという設定は、どんでん返し的なものではなく、この物語を終わらせるために必須条件。自分でも制御できない「謎の能力」のためとは言え、物語の序盤から終盤まで、あれだけ大勢の無実の人々を殺し続けたのだから、製作者的にも観客的にも、そして多分、物語の登場人物たちにとっても、彼が物語を生き延びて終わるという選択肢はない。製作者にとっては、そもそもが連続誘拐殺人鬼なのだから、「安心」して何人でもリアムに「人殺し」をやらせられるという「利点」もある。もしも、リアムが、一から十まで善良な主人公だったら、物語の中で、彼が「能力」で殺してしまった大勢の人間に対する、作品としての「言い訳」を捻り出さなければならなくなるが、そんな都合のいいものはとても捻り出せそうにない。

もうちょっと、ロマンチックで寓話的なフカヨミもできる。リアムとローズに落ちた「宇宙落雷」の「意味」のことだけど。

「宇宙落雷」は、リアムには「これ以上、誘拐殺人はやらせない」という「呪い」になっている。何しろ、彼が近づけば、その瞬間に人間はみんな死んでしまうのだから、誘拐殺人鬼の彼を満足させるような「誘拐監禁し、さんざん弄んで最後に湖に沈めて殺す」という「変態趣味」をもう二度とやれない。ちょっと「ミダス王の呪い」に似ている。そして、記憶がなくなったのは、最後に自身の「恐ろしい正体」を思い出して自殺させるため。

「宇宙落雷」は、ローズには「リアムに近づいて、リリー(姉)の仇を討つ」という「贈り物」になっている。のか思ったけど、それはちょっと違う気がする。ローズだけがリアムに死なずに近づけるのようになったのは、リアムが殺したリリーと瓜二つの一卵性双生児だったからだ。というか、リアムが殺したリリーが「生き返って」、自分が殺人鬼であることを忘れてしまっているリアムと人間的な〔関係・繋がり〕を築くことが、その後、殺人鬼としての記憶を取り戻したリアムの自殺を後押しをすることになるからだ。全然、ロマンチックじゃないけど、そんな気がする。

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