最終回まで観ても好きになりませんでした

NHKの夜ドラ『ワタシってサバサバしてるから』を最終回まで観たけど、結局、網浜あみはまさんのことは好きになれなかった。実は、出版社をクビになったあたりで少し好きになりかけたけど、あとはひたすら「下り坂」。だから、最終回まで観たら、むしろ、最初の頃よりも嫌いになったくらい。

思い返してみると、網浜さんがやらかした掛け値なしの「悪いこと」といえばコンペのアイデアの「盗作」ぐらい。つまり、悪事をやらかすから、好きになれなかったのではない(まあ、「魔が差した」ってことは誰にでもある)。

また、劇中、君は今までどれだけの人に迷惑をかけてきたんだ!と怒鳴られているように、印象としては、要するに網浜さんが「はた迷惑なヤツ」で、だから好きになれなかったとも思えるし、コレがほぼ正解のような気がしないでもないが、でもなにか、これはこれで、少しまとをハズしているような気もする。というのは、「サバサバ」を「一生懸命演じている」網浜さん的には、そこに悪意はないからだ。言ってしまえば、網浜さんの悪気のない「サバサバ・プレイ」で、周囲が「勝手に」迷惑を被っているだけだ、と言えば言えそうな気もするからだ。出版社や衣料品会社の「迷惑」をかけられた側に立てば、これが理由で網浜さんが好きではなくなるかも知れないが、視聴者は神の立ち位置なので、主人公側にも立てる。すると、網浜さんの数々の「サバサバ・プレイ」は別に、網浜さんを嫌いになるほどのものではないことに気づく。

しかし、今もハッキリと、網浜さんが嫌い(最初の頃より)。

網浜さんが「実際」に引き起こした「はた迷惑」な「事象」から遡って網浜さんという人間を評価しても、最終回まで観た網浜さんを好きになれなかった理由はつかめない。所詮コメディドラマで描かれる「はた迷惑」でしかないからだ。網浜さん(のような人間)の本質を見抜き、そこから、ドラマでは描かれなかった過酷な「はた迷惑」を思い描けば、(我々が)なぜ網浜さんが好きになれなかったのかが理解できる。気がする。

網浜さんの本質は、「軽率さ」と「無反省」の同居。この本質こそが、最終回まで観ても、(我々が)網浜さんを好きになれなかった(むしろ嫌いになった)理由。つまり、網浜さんというキャラクターがどうこうという話ではなく、そもそもの話として、「軽率さ」と「無反省」が同居している状況を人間は嫌うのだ。そんな状況に巻き込まれたり留まったりすることは、最悪の生存戦略だからだ。

まず「軽率さ」。企業の合併や買収程度のことなら「軽率さ」も大した問題ではないが、旅客機の整備士や、原発のオペレーターや、外科医などの「軽率さ」は、これは命に関わる大問題だ。はっきりと「害悪」。だから、この国(日本)に限らず、人間全般は「軽率さ」に対して厳しい目を持っていて、軽率な人間が身近にいることを嫌がる。人間は、おそらく本能的に、軽率な人間が嫌いだ。

そして「無反省」。たとえ、軽率であっても、やらかした失敗をその都度反省し、改善を試みているのなら、「軽率さ」はそこまで忌み嫌われない。しかし、無反省な軽率さは、とことん嫌われ、遠ざけられ、いずれ排除される。さもなければ、墜落事故やメルトダウンや患者の体内へのメスの置き忘れが、身の回りで繰り返し起きることになる。

「軽率さ」と「無反省」は人間にとって最悪の組み合わせで、だから、劇中いくら網浜さんが「フツウの人」が言えない正論を吐いても、「殺人鬼の獄中記」の「心に残る一文」くらいの効果しかない。網浜さんの株は一向に上がらない。

もうひとつ、最終回まで観ても網浜さんのことが好きになれなかった理由がある。それは、あのドラマの中で誰よりも自分に正直じゃない網浜さんが、「周りの目なんか気にしない」「自分ファースト」と言い続けているから。つまり、「本物のサバサバ」ではない網浜さんが「サバサバ」を「演じて」いることが、輒ち、「周りの目を気にする」「周りファースト」の実践になっていることに、網浜さん自身が気づいてないらしいから。要するに、網浜さんは、ずっと自分に嘘を付き続けているのに、どうやらその自覚がないらしいから。こういう類の愚かさを持つキャラクターには、どうしても冷たい視線を向けてしまう。憐れみよりも鬱陶しさが勝ってしまう。しかしこれは、網浜さんというキャラクターに意図的に与えられた属性というよりは、網浜さんというキャラクターを造形した作者の不手際のような気がするんだよね。


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