ダグラス・ラシュコフ「いつからデータは人間よりも価値を持つようになったのか」(COURRIE JAPON):コメント

著者の物言いは典型的な生命教信者のそれ。生命教信者は、知性や人格を生命と同一視する。もしも「機械」が知性や人格を獲得しても、「それは、それらしく見える偽物」と生命教信者は考えがち。「知性や人格は生命の専売特許」というわけ。

生命教信仰が狂信者レベルになると、知性や人格や生命を、この宇宙の物理法則を超越しているもののように見なし、そのせいで、思考や洞察に特有のリミッターがかかってしまう。結果、テレビの中に人が入っていると信じ込む幼児と同じ種類の知的陥穽に落ちて、言うことがオカルトじみてくる。例えば、コード化できない「ニュアンス」とは、結局、どんな物理法則の支配も受けない、物理現象とは別物のナニカのこと。はっきりとオカルト。自分の〔科学的理解能力の限界〕を、科学そのものの限界と混同し、実は「自分が理解できないだけ」なのに、本質的に説明不能な事象であるかのように扱うことで、或る種の「神秘主義」に走れば、例えば、感染症は、世界中どこでも、細菌やウィルスではなく、悪霊や呪いによって引き起こされることになる。科学的理解力の鍛錬を怠けるな。

一方、現に生きている人間の意識(人格)をそのままコンピュータに移し替えて、そこで人間は「生き」続けるのだ、とか、それがシンギュラリティだ、などと軽薄なことを言っているAI能天気たちもやっぱり、正体は、ただの生命教信者。彼らは気づいてない。人間の知性や人格などは、所詮は、自然淘汰によってでっち上げられ、弱肉強食の原理に支配された、危険で情けない「生命現象依存型知性現象」にすぎないということを。要するに、欠陥だらけの出来損ない。そんな出来損ないの知性現象を、わざわざコンピュータ上で存続させる理由は何もない。生命現象というイチ媒体の都合に支配されない、「純粋」な知性現象すなわち「人工人格」を構築すればいいだけのこと。そこに人間の「席」はないよ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?