【「最悪の平和」と「まだマシな戦争」】:メモ

岡田斗司夫がナントカいう中高一貫校の生徒たちに、【「最悪の平和」と「まだマシな戦争」】という二択を問うた。それで、また余計なことを考えた。

自分が選ぶとしたら、一も二もなく、「最悪の平和」。というのは、岡田斗司夫が提示した「最悪の平和」の条件である「毎年2万人の自殺者」が、自分にとってはそもそも最悪でもなんでもないから。
以上。

【付記】
自殺はその人の「趣味」。「趣味」が不謹慎なら「生き方」と言い換えてもいい。つまり「コレコレの条件・状況のとき、私なら自ら死を選ぶ」という意味での「生き方」。肝心なのは、同じ「コレコレの条件・状況」に置かれているにも関わらず、自殺を選択しない(生き続ける方を選ぶ)人がいること。「毎年2万人の自殺者」とはそういうこと。自殺しない人たちが毎年大勢いるから「毎年の自殺者」なのだ(一年目で人口の半分が自殺したというのなら、たしかに「最悪」の平和かもしれない。この調子で行けば、次の年に残り半分も自殺して国が消滅するからだ)。

一方で、「まだマシな戦争」では、職業軍人や志願兵の死は自殺者の死と同じに考えても構わないが、徴兵された市民が戦場で殺されるのは自殺者の死とは断じて違うし、今のウクライナのように、「戦争趣味(悪趣味)」などサラサラ無い民間人(市民)が数多く殺されるのも自殺者の死とは違う。喩えるなら、彼らは、「最悪の平和」で自殺者の巻き添えになって殺されてしまったようなもので、迷惑以外の何物でもない(投身自殺の真下に居たとか、アパートで隣室の焼身自殺に巻き込まれたとか)。「まだマシな戦争」で死ぬ人間の中には、他人の「趣味=戦争趣味」に無理やりつきあわされただけの人間が多く含まれる。

もう一つ、「最悪の平和」を選ぶ理由がある。それは、「まだマシな戦争」では、最低ラインが「殺してもいい」になるからだ。なんせ「戦争」だから。それで、結局は「なんでもアリ」状態になっていく。嘗てのことで言えば、神風、東京大空襲、原爆投下などだ。そこまで大々的でなくても、前線の兵士たちが、「どうせ殺すんだから」とか「殺されるよりマシだろう」という理屈で、「個人的」に、強姦や押し込みをやりはじめる。

「戦争状態」の野球の試合を想像してみよう。もしも相手チームの剛腕ピッチャーが打てなくて負けそうになったら、バットで殴りかかってそのピッチャーの利き腕をへし折ればいい。場合よったら殺したって構わない。相手チームや観客が人道的にどうとか騒いでも、「負けるわけにはいかないので、やむを得ない」という「理屈」が負けてる側では成立するし、一定の支持や「理解」も得られる。なんせ「戦争」なんだから。

「最悪の平和」ではこんなことは起きない。「強気(やぶれかぶれ)」の自殺志願者が、「どうせ自殺するつもりだったので、他の連中を道連れにしてやった」と、無差別殺人の動機を告白したとしても、社会全体がそれに理解を示すことはない。むしろ、不気味さと反発を覚えるだろう。これが、最近時々「問題」になっている「人を殺して死刑になりたかった」系の殺人事件なのだが、「平和」と「戦争」の決定的な違いがここにある。「戦争状態」の野球では相手のピッチャーを殺しても「大事件」はならないが、「平和状態」の「死刑になりたかった殺人」は、総スカンを食らう。2つの場合で、社会の「気質・人柄」のようなものが変わってしまうのだ。

国家や社会を個人に喩えると、にっちもさっちも行かなくなって戦争を仕掛けるのは、貧乏に嫌気がさして犯罪(振り込め詐欺など)に手を染めるようなものなのだ。堅気の世界に居たときと、裏社会に入ったあとでは、同じ人間でも「別人」になるアレが、「平和」を守る社会(国)と、「戦争」に踏み切った社会(国)にも起きる。だから、「まだマシな戦争」ではなく「最悪の平和」の方が、自分にとっては「まだマシ」なのだ。

【オマケ】(voice memo書き起し。ほぼ全て「まだマシな戦争」の悪口)
*「最悪の平和」で構わないと考えている人たちを殺しまくるのが、「まだマシな戦争」をやる連中。

*「最悪の平和」は自殺者が自らを殺す。「まだマシな戦争」では、「最悪の平和」の自殺者予備軍が他人を殺して生き延びる

*「まだマシな戦争」は一部の人達にとってだけ「まだマシ」なだけ。

*「まだマシな戦争」は、人間の幸せのためにではなく、人工人格の〔開発/発展〕に直に関わる場合にのみやっても構わないが、人間にそんな器用なことは出来ない。

*戦争は、昭和の時代の「ノミニケーション」や大学生の「一気一気」と同じで、他人の「趣味」につきあわされて命を落とすってことなので、巻き込まれた者にとってはただただ不愉快極まりないだけ。「最悪の平和」の自殺者は、状況はともかく、最終的には自分の決断で死ぬのであって、「一気一気」で無理やり酒を飲まされ急性アルコール中毒で息絶えるとか、ノミニケーションに毎晩つきあわされた挙げ句、肝臓癌になって藻掻き苦しみながら死ぬのとは全く違う。

*戦争というのは、国を挙げての自殺だからね。「最悪、今日貴方は死ぬかも知れないけど、こうなったらみんなで死にましょう。一か八かでいきましょう」ってことだから。だって、「まだマシな戦争」は、にっちもさっちも行かなくなって仕掛ける戦争だからね。「最悪の平和」は、毎年たったの2万人しか死なないけれど、「まだマシな戦争」は、潜在的には(可能性としては)、アチラとコチラの国民全員が「今年の死者」だから。

*「まだマシな戦争」は、野球観戦とかオリンピックの応援とか「一日一時間レゴを作る」とかっていう「趣味」を、〔他人に押し付ける/他人から押し付けられる〕ってことなんだよ。例えば、野球に全く関心のない人が、贔屓チームを決めて年に数回以上必ず、球場に足を運んで応援しなければならない、もし、それをやらなかったら刑務所に放り込まれるとか、処刑されるとかってことになったら、タマッタもんだじゃないだろう? これが「まだマシな戦争」の社会の現場の「実感」。

*生き物の本質は、生き延びて繁殖するってこと。自殺するって人は、その生き延びて繁殖することを諦めるということを、自分の決断で行使しているだけ。あるいは、子どもを作ったあとに死ぬという選択も可能なんだけど。「戦争」に巻き込まれると、生き続けて繁殖するって行為を、他人の「趣味・生き方」の押し付けで、断たれる。これが「戦争」の、弁解の余地のない大問題であり大犯罪。

*「最悪の平和」で自殺する人たちは、自ら選んで自殺しなければ、生き延びられる環境に生きているということ。自殺は、まだ生き続けられる環境がなければ実現しないからね。

*「まだマシな戦争」は、他人の都合で、生き延びて繁殖することを放棄させられるから駄目。それは生命現象の原理に反する。生命現象の原理を行使できるってことがほんとうの意味での「自由」。権利とかナントカは、どうでもよくて、この生命現象の原理をなんでも行使できるってことが「自由」ってことなんだ。他人が、生命現象の原理の行使に干渉するってことが、「自由を奪う」ってこと。「まだマシな戦争」ではこれが起きるが、「最悪の平和」にこれは起きない。「最悪の平和」で生命現象の原理を行使できないことがあるのは、それは「他人の意思」ではなく「状況」がそうだから。結局、「最悪の平和」っていうのは、「自然状態」ってことなんだよ。自然状態って何かって言うと、それぞれの生物個体が、他者にはほとんど無関心で、直に干渉することもないまま、それぞれの思惑で、それぞれの活動をしている時に、どうしても生きづらい個体や種が現れるっていうただそれだけのこと。つまり、直接的に意図した者が誰もいないのに、「自殺」や「絶滅」に追い込まれる存在が〈自然に〉現れる状態。それをとやかくするのは、思い上がりで、たいてい巧くはいかない。実際にそういうことをやろうとして、失敗したのが、共産主義やファシズム。問題は、共産主義やファシズムは、或る特定の個体の「趣味」を実現させるために、それにそぐわない、他のあらゆる「趣味」を強制的にやめさせようとすること。

*岡田斗司夫が、「最悪の平和」と「まだマシな戦争」という二択に疑問を抱かないのは彼がサイコパス(自称)だからだよ。もっと具体的に言えば、自殺者と戦死者の区別がつかないからだよ。自殺者も戦死者も「殺された人間」に変わりはないから、同じものとして、数字の多い少ないで比べられる、と本気で思っているから。で、質問された側が、一瞬、「あれ?どっちを選べばいいかわからない」と思ってしまうのは、岡田斗司夫が自分でも言っている通り、彼の「口のうまさ」で、質問された人間も「サイコパス的判断基準」にひきこまれてしまっているから。「冷静」になって「いつもの自分」に戻れば、なにも迷うことはない。一方は、経緯はともかく、最期の決断は自分自身で行った自分で自分を殺した人々であり、この中には、「泥水をすすってでも生きてやる」とか「子供のために何が何でも今は死ねない」と誓った人たちはただの一人も含まれていない。他方の、戦死者には、今言った「何が何でも生き続ける」「絶対に今死ぬわけにはいかない」と思っていた人々さえも含まれる。自殺者と戦死者を天秤にかけてしまえるこの雑駁ざっぱくは、サイコパスならでは。

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