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《存在証明》(?!)

〈存在証明〉で最も有名なのは(おもに哲学の分野においてであるが.)デカルトをはじめとする中世哲学における「神の存在証明」だろう。 (※ wikipedia: https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%A8%BC%E6%98%8E .)
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これは、今(現代)読むと'
論理的'に かなり緻密さに欠けおかしなところも感じられるだろうけれど、 

代表とされる もう1人
トマス・アクィナスという神学者( ・哲学者)の超大きな作品(書物)『神学大全』)では 、

「存在」についての'説明'を、
いわば
形而上 と 
形而下 とに分け 

'( 何か絶対的なもの'(形而上)があって 、 
それ以外のもの(形而下)のものごと'を、細かく説明している。プラトンからアリストテレスへと軸足を移行させた'とも言われている。

膨大な形而下のものごとの'その上' には 
やはり'「神」'がいて、
「神」とは形而上の存在であり、それゆえ'証明“する必要がある。 
しかし、事物'や存在のある(成り立つ)「理由」は、すべて『神』からでている、よって哲学は'神学の侍女(下女)'*とも言った。

' エリック・フォッファ-は、“ 日々自らの「価値」を証明 し、日々あらたに存在を理由づけしなければならない'と言った' 、が、

そもそも「存在」とは(何か)というのは、延々と、永遠ともいえる哲学の課題だった( もちろん今でも)。

' 物質には質量がない' ことが量子物理学により分かっている現在、 

「存在」の把握も、中世のそれ(論理)とは比べものにならないくらい緻密になり、要請されもしている。 

 私たちは、 「存在」を知りたいのだろうか。?)。少なくとも 「存在」そのもの(の本質)を扱う哲学でなくとも、自身の'存在'を 何かしらで把握したり 確認したりしていないかぎり、 ものごとの認識さえおぼつかない、逆に言えば、何かを把握するための よって立つ'(自己の)認識'は、存在によって裏打ちされていなければ ならないともいえる。 

自分自身(自己)の '存在証明'とは、自己による自己への '承認欲求' なのだろうか?).

もちろん 他者との関係性'を'社会 や自己 の 成り立ちの元'として捉えるのを基準(基本)としてみても、それでもその関係性において起こりくる さまざまなること' は、かかるものごとを 前に進ませる(進める)ための解釈や認識や理解やにおいて、自己の'認識'が不可欠なものとも言える。

でも (それでも)、だとしたら '簡単'だ。それは、『肯定』だから。目の前のこと、あらわれ出づる'すべてのこと' を、「肯定」する、 

( ~"すべてを疑ってかか"っている自分を、その''疑い'よりも'強く' 「肯定」していない限り '前, には進めない。~)

それは、'「存在」の価値'に、一歩 また一歩と、「深く」踏み込み分け入る'ことかもしれない。いついかなる場合やケースにおいても、'自己により' '自己に関わる(自身の知覚'している)'目の前のことを 'すべて肯定する' 。( もちろん'たとえば否定'している自分も肯定することを含めて.)。'自身 , の'自身, に対する承認欲求'を満たすこと、これは、間違いなく自分自身の「存在証明」として 機能することだろう。)



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