『3653日目』に寄せて その1

塔短歌会の東北関係者(必ずしも在住者ではない)の方々が毎年東日本大震災にちなんで短歌とエッセイを小冊子を作って発表していました。で、この度10年分を一冊にまとめたものが刊行されました。震災を受け止める側の記録としても価値があると思います。

この本を手にしてふと、地震について簡単に自己流でもいいからまとめておこうという気になりました。悪い癖かも知れませんが、地質標本館で一般の方々への解説の仕事をしていると、知って欲しい気持ちが強くなるのです。地震に対してわけのわからない不安や恐怖は誰にでもあるし、知ったからと言って何が変わるわけでもないでしょうけれど。それでもなお、少しでも知るとっかかりになれば、と思うのです。気象庁や私の勤務先のような国立の研究所や大学の研究者が研究し、それを一般市民に還元するということが昔よりも行われるようになってきています。だから別に私が書かなくたっていいと思うのですが、自分の気持ちの整理のためにも書いておきたいと考えました。地震学者ではないけれど地球科学にかかわるものとして。

東日本大震災という呼び名は「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」によって引き起こされた災害につけられたものです。地震名は気象庁がつけますが、震災名は閣議で決められます。今まで大震災というのは関東大震災(関東地震,1923年)、阪神淡路大震災(兵庫県南部地震,1995年)、東日本大震災(2011年)の3つです。(https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/higai/higai-1995.html)

特に東日本大震災は、被害の範囲が広域で、いくつかの災害が複雑に混じり合っています。最大のものは津波の被害でしょう。揺れによる火災や家屋の倒壊もありました。さらに原子力発電所の爆発事故が加わりました。その上、死者こそ出ませんでしたが、造成地の液状化や長周期地震動による高層ビルの揺れの問題が急浮上しました。下の図は3つの大震災で亡くなった方々の死因です。全然違う災害に見えます。地震がもたらす被害の多様さに恐ろしくなります。

画像1

https://www.nhk.or.jp/sonae/column/20120623.html より

「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」については、気象庁の特設ページにまとめられています。原発事故については自然災害とは言い切れない様々な要素が絡んでいますのでここでは触れません。ただ、この事故により、国はエネルギー戦略を転換せざるを得ませんでした。地球温暖化対策も含めてです。事故前は原子力発電は日本の発電の三割以上を担っていました。現在その分は火力発電で二酸化炭素を出しながらまかなっています。おそらく、近年増加している豪雨災害をもたらしている〇十年に一度の大雨は地球温暖化が原因と言われています。かといって、明日から電気の使用量を三割減らしてくださいと言われても正直困ってしまいます。

歌でしかものは言えない誰も彼も言葉の裏には生活がある『虹の表紙』

2015年3月に女川駅が再開したとき、女川に行きました。テレビで見て思っていたよりもずっと海が近くて。まだ新しい町の工事が始まる前だったので、何もない、ということの恐ろしさを感じたのでした。

ちなみに、女川の原子力発電所は避難所にもなったのに、福島の原子力発電所が爆発事故を起こしたのは、冷却装置の電源が無事だったか否かの差であったと言われています。外部電源を敷地内のどこに置いたか。そのちょっとした差が地域の運命を変えました。原子力発電所が海辺に作られるのは冷却に大量の水が必要だからなのだそうです。津波の危険と発電所の運転は日本の場合は抱き合わせと言うことを、わたしも含めて多くの一般の人が知ったのはあの爆発事故が起きたからではないでしょうか。

震災という大きな現実を突きつけられて、今まで見ないようにしてきた社会の問題が露わになってきます。復興応援、家族の絆、が美談として取り上げられている陰で、狭い仮設住宅に家族が詰め込まれてDVが増えた、という調査があります。先の見えないストレスから増えているのでしょうけれど、地方都市の高齢化と過疎化の加速によって抱えていた問題も影響しているように思います。

東京の一極集中がもたらす被害もわすれてはなりません。あの日、鉄道が止まり人びとがぞろぞろと夜通し移動しました。逆方向ですが、わたしもつくば市に留め置かれました。親と息子は家に居て無事と連絡がついたので安心して避難所へ行きました。このあたりのことはわたしも歌集『虹の表紙』に残しています。読み返すと生々しく思い出されます。

つくば市では帰宅困難者は吾妻小学校が避難所になっていて、地元の方は体育館、帰宅困難者は男女別に教室が割り当てられました。わたしは、荒川沖駅からつくばセンターへ行くように言われたとき、とっさに駅前のコンビニに並んでお菓子とペットボトルのお茶を買いました。そこで我孫子から通っている大先輩と一緒にちょうど来たバスに乗ってつくばセンターに行きました。お菓子とお茶を買っていったのは大正解で、避難物資としてビスケット数枚とボトルの水がもらえたのは夜中の十二時を過ぎてからでした。布団は女性と高齢者が優先でかつ敷き布団か掛け布団のどちらか一枚にするようにと。これは午前一時過ぎだったので寝ていて取りに行かない人もいました。一触即発の空気でひやっとしたのは、小学校の教室なのでコンセントは1つか2つしかありません。そこを占領して自分の携帯電話を充電していた人が居て、小競り合いがありました。(以来、わたしは携帯電話の充電池を持ち歩くようにしています。)地震はひっきりなしに起き、緊急事態速報は鳴りっぱなしという感じでした。避難所では多くの見知らぬ人が集まっているので、地元の方たちが夜通し見回りをしてくださっていました。ありがたいことでした。翌朝、つくばセンターから取手まで関鉄バスの臨時便が出るという連絡があり、それに乗るために筑波センターへ行き、長い長い列に並びました。1台のバスで足りるはずも無く、係の人に、もっとバスを出せと詰め寄っている人たちもいました。5台目か6台目で、ぎゅうぎゅう詰めでなんとか乗れましたが、なんと1100円の運賃を取られました。(通常、筑波センターから東京駅までの高速バス運賃が1200円です。)会社としても運転手と燃料の確保が大変だったと思いますが、ぼったくりに思えました。こういうときに行政の度量が出るのだなと思います。国道6号線に通行規制がしかれていたので、くねくねと回り道をして行った気がします。取手駅でこれまたぎゅうぎゅう詰めのJRの臨時便に乗ることができ、松戸まで帰り着きました。帰り着いたとき土曜日の午前中ですがしーんと静まりかえっていました。ちなみにJRは無料でした。

10年経っても自宅の最寄り駅に着いたときの安堵感と空の青さは鮮明に甦ってきます。まだ、被災地の状況も良く知らず、原発事故も起きる前でした。

脱線が長くなりました。地震について。2011年3月1日から5月31日の東日本の震源分布(気象庁一元化震源データを利用)をプロットして以下のサイトに公開しています。

https://staff.aist.go.jp/r-morijiri/MyHome2020/bakusou/index_seismo.html



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