雄弁は銀、沈黙は金

イギリスの思想家・歴史家のトーマス・カーライルのことば。


淀みなく話せることも大事だが、黙るべきときを知ることはもっと大事である。の意。

この言葉が好きだ。


子どもの時、同級生の男の子の耳の裏が変だった。垢が溜まっていたと勝手に思い込んでいるが、本当のところはわからない。頭を洗うときに母から垢が溜まるから耳の裏も丁寧に洗いなさい、と毎回しつこく言われていたのでそう思い込んでいるだけかも知れない。もしかしたら怪我をしていて、治りかけの状態だったのかも知れないし、他の理由があったのかも知れない。

その男の子は口が悪く、友達を泣かせたり喧嘩をすることも多かったので、わたしもその子に対してきつい口調でモノを言う癖が付いていた。

「耳の後ろきったなーい!!!」大きい声でその子に言った。具体的なからかい文句は覚えていないけれど、近くにいた友達に「見て見て、汚いよね!?」と同意を求め、その友達と一緒にからかった。はず。

その男の子は怒って何か言い返してくるだろうと思っていたら、全く違う反応をした。 泣いてしまったのだ。

面食らってしまった。

予想していた反応と違う。

すぐに後悔したけれど、この後悔はどんな気持ちからで何に対しての後悔なのかわからなかった。ひどく混乱した。けどもう引っ込みがつかない。先生にも怒られたが、なんて言われたかは忘れた。とりあえず謝ったがその時はとにかく混乱していた。

ゆっくりとゆっくりと、その子をひどく傷つける言葉だったんだとわかった。言ってはいけないことを言ってしまった。本気で汚いと思っているわけじゃない。いや、汚いけど。そんなつもりで言ったわけじゃない。いつもみたいに怒って追いかけてきたり叩いてきたり、そんな風に何気ないいつものやりとりが交わされるだけだと思っていた。

初めて人を傷つけたと自覚した経験だった。

もちろん、その前にもたくさん傷つけたり傷つけられたりと幼いながらに経験してきたはずだけれども、こんなにも後悔した経験は初めてだった。

その後も色々と言動で失敗した経験はあるけれど、今でもその時のことが胸につかえて取れないでいる。彼もその時のことを覚えているだろうか。気持ちを込めた謝罪をしたいけれど、蒸し返してまた傷を増やすことになるのも良くないかな、などと考えて今に至る。

その時のことや、経験してきた色々(この色々もこつこつ書いていこうと思う)から、誰かに自分を表現するということが苦手になってしまった。チキンと言われてしまえばそれまでだけれども、何かを発信して誤解を与えるより、何も言わずに誤解される方をわたしは選んできた。何も言っていないんだから、是も非もない。誤解をするなら勝手にどうぞ。

ほんの数人の大事な人にはできる限り自分を伝えるようにはしているが、それ以外は知らんがな。と言う姿勢を取ってきた。

それでいいと思っていたけれど、どうやらダメみたいである。

誰かに「自分を知ってほしい!」ということじゃない。

自分に「自分を知ってほしい!」と叫ばれたのだ。

無意識に、無自覚に、自分をどこかに閉じ込めてしまった。「自分だけは自分の気持ちを知っている。」と思って生きてきたけれど、どうやらそのやり方はあまり良くなかったらしい。

今更何をどう表現すればいいのかわからない。表現の仕方もわからない。けれど自分が問いかけてきている気がする。何を?わからない。けれど、何かを何とかしなくては。

言わない美学を間違って実践してしまったかも知れない。


雄弁は銀、沈黙は金

この言葉はこれからもずっと好きだと思う。

ただ、『雄弁』とまではいかなくても、これからはもっとちゃんと自分の思いや気持ちを表現しなければ。


それが、このnote。


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